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沈黙の患者

2026.10.04 公開 ポスト

「王子様の不親切」より

87歳の老婆のATM操作を手伝った理学療法士、目に入った残高に気持ちが揺さぶられ――#高齢化社会の心理サスペンス小説南杏子

デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の南杏子さんの最新刊『沈黙の患者』は、「高齢化社会×犯罪未満」を描く、心理サスペンス。

当たり前の日常を生きていたのに、ちょっとした弾みで小さな事件に巻き込まれていく……。決して他人ごとではない物語を、あらすじと抜粋でご紹介します。

「王子様の不親切」

理学療法士・村上は訪問リハビリサービスで担当する87歳の御影さんに「王子様」と呼ばれ、色々頼られている。しかし、“お金”にまつわることで、どうしても引き受けられない頼みを断ったことから、担当を外されてしまう。どうすればよかったのか――答えの出ない村上は、別の利用者からあることで、現金を預かることになり、動揺する。

「この前のカードの続きなんだけど」
カード、という言葉で胸が縮むような感覚を覚えた。
「裏の番号も必要だって言われたの」
御影さんの足を元の位置へと戻し、顔を上げる。
「裏の番号、ですか?」
「そう。読んでくださる?」

*   *   *

三月最初の訪問日は、あいにくの雨だった。やむを得ず、お買い物リハに出るという当初の予定を変更し、基本的な動作に集中する。

「さ、御影さん、始めますよ」

椅子の肘掛けに手を置かせた。立ち上がる前の体重移動を意識させるため、僕は正面ではなく、斜め前に立つ。僕との外出を楽しみにしていたのだろう。御影さんはやる気を失っていた。

「ゆっくり立ってみましょう!」

力強く声をかけても、ため息交じりの声が返ってくるばかり。

「さあ、頑張って!」

「はあ、あ……。よいしょ」

膝が伸びきる前に、上半身がひどく揺れた。いつも以上に不安定だ。

「足にしっかり体重が乗ったのを感じてから立ちましょう」

声をかけると、御影さんはいったん腰を下ろしてやり直した。今度はようやく安定した。

「いいですね。今の感じ、覚えておいてください。一人で座った姿勢から歩行器へ移るときなども、すべてこの基本動作からです」

御影さんはうなずいたが、視線はどこか落ち着かなかった。

「少し休むわ……」

椅子に座った御影さんは、またも大きなため息をついた。それから、おもむろに眼鏡をかけて、テーブルの上にあった例の赤い手帳を引き寄せる。ページの端には、以前に書いた大きな数字が残っていた。それを見なかったふりをして、僕は御影さんの足元にしゃがんだ。

「今日は、ここを伸ばしましょう」

ふくらはぎに手を当て、ゆっくり足首を動かしつつ数を数える。

「一、二、三……」

五のところで、御影さんが言った。

「ねえ……」

カウントを続けながら、僕は答えた。

「はい?」

「この前のカードの続きなんだけど」

カード、という言葉で胸が縮むような感覚を覚えた。

「裏の番号も必要だって言われたの」

御影さんの足を元の位置へと戻し、顔を上げる。

「裏の番号、ですか?」

「そう。読んでくださる?」

セキュリティーコードのことを言っていた。それは、不正利用の防止を強化する目的で、それぞれのクレジットカードに割り当てられた三桁ないし四桁の数字である。それを読むのは、何かの一線を越えてしまうようで怖かった。

足首をサポートする動きをいったん止め、僕は深く息を吸う。

「……読めません」

ドンと音を立てて、御影さんは足をついた。不快そうに目を細めている。

「どうして? 私、目が悪いのよ」

この間と同じ銀色のクレジットカードを取り出し、目をすがめるような動きをした。

「分かっています」

「だったら、見える人が読んでくれたっていいでしょう。表の番号は読んでくれたんだし」

今度は慎重に説明する。

「カードの番号と、セキュリティーコードは違います。その番号は所有者以外、見てはいけないんです」

御影さんは、まばたきを何度か繰り返した。目には怒りというより、困惑があった。

「じゃあ私、どうしたら……あなた、間違ってる」

首を振る御影さんに、僕は言った。

「カードの所有者を守るために、誰にも見せてはいけないことになってるんです」

間違っていると言われても、ダメなものはダメだ。

視線を落としたまま、御影さんは言った。

「買いたい物があるのに……」

銀色のクレジットカードが、赤い手帳の上に置かれる。

「王子様なら、読んでくれると思ったのに」

手帳の上のカードは裏向きだった。三桁の数字がこちらを向いている。背中に汗がにじんでくるのを感じた。

僕は、一歩下がる。

「で、できません」

わずかに声が震えた。

「ご家族に頼むか、カード会社の正式な窓口で確認してください」

その瞬間、御影さんの声色が変わった。

「貴和子は忙しいのよ。いちいち、こんなこと聞けないでしょ!」

貴和子──娘さんだ。確か、大手の化粧品会社の国際マーケティング部門に勤務する旦那さんに同行して、バンコクに住んでいると聞かされている。しっかり者の娘だが、いろいろ細かいことを言ってくるから、とても同居はできないとも。

御影さんは、カードを手帳に挟んで閉じた。

「……不親切ね」

小さい声だったが、はっきりと聞こえた。その言葉に動揺しつつも、僕は否定も弁解もしなかった。

彼女はそれきり口を閉じてしまった。立ち上がりの練習をもう一度促したが、動こうとしない。

「花水木に安全に行くための基礎練習ですよ。やっておきませんか?」

いくら誘っても、御影さんは返事すらしなかった。

「もういいわ」

しばらくして御影さんは、僕から目をそらしてそうつぶやいた。

四十分間の後半は、無為に過ぎてしまった。雨音を耳にしながら、帰り支度をしてドアを閉める。外廊下に出た瞬間、焼けつくような喉の渇きを覚えた。エレベーターを待つ間に、僕は今日のリハビリを頭の中でなぞった。

立ち上がり、歩行、休憩。安全を確保しながら、どれも効果的な方法で、きちんとできていた。なのに、御影さんの満足は得られず、伴走した僕自身も打ちひしがれたような思いだった。

 

 

関連書籍

南杏子『沈黙の患者』

「あのまま一人で焼け死んでくれていたら……」 真面目に生きてきた人が、陥穽にに落ちる時――。 「高齢化社会×犯罪未満」をテーマにした傑作心理サスペンス。 デビュー10周年の現役医師作家の新境地!

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沈黙の患者

「あのまま、一人で焼け死んだくれたら……」高齢化社会に潜む“犯罪未満”の出来事に心揺れる人々を綴る、傑作心理サスペンス。デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の新境地! 

決して他人ごとではない、日常を蝕む5篇の物語

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南杏子

1961年徳島県生まれ。日本女子大学卒。出版社勤務を経て、東海大学医学部に学士編入。卒業後、都内の大学病院老年内科などで勤務したのち、スイスへ転居。スイス医療福祉互助会顧問医などを勤める。帰国後、都内の高齢者中心の病院に内科医として勤務。

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