デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の南杏子さんの最新刊『沈黙の患者』は、「高齢化社会×犯罪未満」を描く、心理サスペンス。
当たり前の日常を生きていたのに、ちょっとした弾みで小さな事件に巻き込まれていく……。決して他人ごとではない物語を、あらすじと抜粋でご紹介します。

「王子様の不親切」
理学療法士・村上は訪問リハビリサービスで担当する87歳の御影さんに「王子様」と呼ばれ、色々頼られている。しかし、“お金”にまつわることで、どうしても引き受けられない頼みを断ったことから、担当を外されてしまう。どうすればよかったのか――答えの出ない村上は、別の利用者からあることで、現金を預かることになり、動揺する。
「この前のカードの続きなんだけど」
カード、という言葉で胸が縮むような感覚を覚えた。
「裏の番号も必要だって言われたの」
御影さんの足を元の位置へと戻し、顔を上げる。
「裏の番号、ですか?」
「そう。読んでくださる?」
* * *
三月最初の訪問日は、あいにくの雨だった。やむを得ず、お買い物リハに出るという当初の予定を変更し、基本的な動作に集中する。
「さ、御影さん、始めますよ」
椅子の肘掛けに手を置かせた。立ち上がる前の体重移動を意識させるため、僕は正面ではなく、斜め前に立つ。僕との外出を楽しみにしていたのだろう。御影さんはやる気を失っていた。
「ゆっくり立ってみましょう!」
力強く声をかけても、ため息交じりの声が返ってくるばかり。
「さあ、頑張って!」
「はあ、あ……。よいしょ」
膝が伸びきる前に、上半身がひどく揺れた。いつも以上に不安定だ。
「足にしっかり体重が乗ったのを感じてから立ちましょう」
声をかけると、御影さんはいったん腰を下ろしてやり直した。今度はようやく安定した。
「いいですね。今の感じ、覚えておいてください。一人で座った姿勢から歩行器へ移るときなども、すべてこの基本動作からです」
御影さんはうなずいたが、視線はどこか落ち着かなかった。
「少し休むわ……」
椅子に座った御影さんは、またも大きなため息をついた。それから、おもむろに眼鏡をかけて、テーブルの上にあった例の赤い手帳を引き寄せる。ページの端には、以前に書いた大きな数字が残っていた。それを見なかったふりをして、僕は御影さんの足元にしゃがんだ。
「今日は、ここを伸ばしましょう」
ふくらはぎに手を当て、ゆっくり足首を動かしつつ数を数える。
「一、二、三……」
五のところで、御影さんが言った。
「ねえ……」
カウントを続けながら、僕は答えた。
「はい?」
「この前のカードの続きなんだけど」
カード、という言葉で胸が縮むような感覚を覚えた。
「裏の番号も必要だって言われたの」
御影さんの足を元の位置へと戻し、顔を上げる。
「裏の番号、ですか?」
「そう。読んでくださる?」
セキュリティーコードのことを言っていた。それは、不正利用の防止を強化する目的で、それぞれのクレジットカードに割り当てられた三桁ないし四桁の数字である。それを読むのは、何かの一線を越えてしまうようで怖かった。
足首をサポートする動きをいったん止め、僕は深く息を吸う。
「……読めません」
ドンと音を立てて、御影さんは足をついた。不快そうに目を細めている。
「どうして? 私、目が悪いのよ」
この間と同じ銀色のクレジットカードを取り出し、目をすがめるような動きをした。
「分かっています」
「だったら、見える人が読んでくれたっていいでしょう。表の番号は読んでくれたんだし」
今度は慎重に説明する。
「カードの番号と、セキュリティーコードは違います。その番号は所有者以外、見てはいけないんです」
御影さんは、まばたきを何度か繰り返した。目には怒りというより、困惑があった。
「じゃあ私、どうしたら……あなた、間違ってる」
首を振る御影さんに、僕は言った。
「カードの所有者を守るために、誰にも見せてはいけないことになってるんです」
間違っていると言われても、ダメなものはダメだ。
視線を落としたまま、御影さんは言った。
「買いたい物があるのに……」
銀色のクレジットカードが、赤い手帳の上に置かれる。
「王子様なら、読んでくれると思ったのに」
手帳の上のカードは裏向きだった。三桁の数字がこちらを向いている。背中に汗がにじんでくるのを感じた。
僕は、一歩下がる。
「で、できません」
わずかに声が震えた。
「ご家族に頼むか、カード会社の正式な窓口で確認してください」
その瞬間、御影さんの声色が変わった。
「貴和子は忙しいのよ。いちいち、こんなこと聞けないでしょ!」
貴和子──娘さんだ。確か、大手の化粧品会社の国際マーケティング部門に勤務する旦那さんに同行して、バンコクに住んでいると聞かされている。しっかり者の娘だが、いろいろ細かいことを言ってくるから、とても同居はできないとも。
御影さんは、カードを手帳に挟んで閉じた。
「……不親切ね」
小さい声だったが、はっきりと聞こえた。その言葉に動揺しつつも、僕は否定も弁解もしなかった。
彼女はそれきり口を閉じてしまった。立ち上がりの練習をもう一度促したが、動こうとしない。
「花水木に安全に行くための基礎練習ですよ。やっておきませんか?」
いくら誘っても、御影さんは返事すらしなかった。
「もういいわ」
しばらくして御影さんは、僕から目をそらしてそうつぶやいた。
四十分間の後半は、無為に過ぎてしまった。雨音を耳にしながら、帰り支度をしてドアを閉める。外廊下に出た瞬間、焼けつくような喉の渇きを覚えた。エレベーターを待つ間に、僕は今日のリハビリを頭の中でなぞった。
立ち上がり、歩行、休憩。安全を確保しながら、どれも効果的な方法で、きちんとできていた。なのに、御影さんの満足は得られず、伴走した僕自身も打ちひしがれたような思いだった。
沈黙の患者

「あのまま、一人で焼け死んだくれたら……」高齢化社会に潜む“犯罪未満”の出来事に心揺れる人々を綴る、傑作心理サスペンス。デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の新境地!
決して他人ごとではない、日常を蝕む5篇の物語
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