デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の南杏子さんの最新刊『沈黙の患者』は、「高齢化社会×犯罪未満」を描く、心理サスペンス。
当たり前の日常を生きていたのに、ちょっとした弾みで小さな事件に巻き込まれていく……。決して他人ごとではない物語を、あらすじと抜粋でご紹介します。

* * *
まだらぼけの母がボヤを出し、介護に悩まされる、ビルの清掃員として働くバツイチで56歳の早智。近所の鷺沼に唆されて、「認知症の母」をレンタルして介護保険を騙し取ってしまった。500万という大金に最初は喜ぶ早智だったが、鷺沼がなかなか“念書”を返してくれず、焦り始める。念書に使ったのは息子の名刺だったのだが、その息子は……。
「私の母を貸してあげようか?」
まるで「傘を貸そうか」とでも言うような調子だった。
* * *
「火傷でも何でもして、病院でも施設でも入ってくれればよかった。いっそのこと、あのまま一人で焼け死んでくれていたら……」
最後の五軒目に訪ねた鷺沼さんの家で、思わず口にしてしまった。もちろん本気ではない。
ただ、母に振り回される日常に加え、そうでなくても苦しい生活に賠償金という出費がのしかかった。いつまでこんな日々が続くのか。もう嫌だ、すべてリセットしたい──というのは本音だった。
「あなた、そんなこと考えているの」
鷺沼さんに、あきれた口調で言われてしまった。
「いえいえ、もちろん冗談ですよ」
14苦笑いをしながら返したが、相手の目は笑っていなかった。
「追い詰められているのね。なら、もっと賢くなりなさい。利用できるものは、とことん利用しないと」
真剣な声とともに、鷺沼さんに肩を優しくたたかれた。
それまで鷺沼さんとは、あまり話をしたことはなかった。私より二、三歳下の五十代半ばで、旦那さんと二人暮らし。どちらかというと地味な感じの人だ。共同購入クラブに入ってはいるが、注文はたまにしかしない。メンバーの中では、最も影が薄かった。こんなに親身になってくれるとは意外だった。彼女はさらに話を続けた。
「森下さんのお母さんって、介護サービスを受けていないの?」
会話の流れが思わぬ方向へと転じた。私は、ケアマネの友人が口にした見立てを引き合いに出し、申請をしても「要介護」の条件は満たさないだろうと言われたこと、それに、母自身が第三者の手による介護を毛嫌いしていることなどを鷺沼さんに告げた。
「そっか。森下さんのところは、申請もしてないのか」
ふうん、とつぶやいて鷺沼さんが宙を見る。余裕の表情だが、それもそのはず。彼女の母親も、私の母とほぼ同年代だが、認知症が進み、二年前から市の郊外にあるグループホームに入所している。「介護の負担にサヨナラよ」と鷺沼さんは以前からうそぶいていた。
「あなた、介護保険のことは知ってる?」
この人は何を言おうとしているのだ。だから、さっき話したではないか。母は介護保険でデイサービスやショートステイはおろか、ホームヘルパーといった他人様のお世話になるのを拒否しているのだ。だから、そのサービス受給の前提となる要介護認定の申請にもこぎつけていない──と。
首を左右に振り、「いや、だから……」と改めて説明しようとすると、鷺沼さんに袖を強く引かれた。
「ちょっと上がって。お茶を一杯だけ飲んでいきなさいよ」
やや強引にキッチンに案内される。テーブルは私の家とは比べものにならないほどきれいに片づいていた。時間に余裕がある人の暮らしぶりだ。出されたお茶はおいしいけれど、なんだかぬるい。
「介護保険のことだけど、ちょっと整理して話をしてあげようかと思って」
鷺沼さんは、もったいぶった口のきき方をしてきた。私はうんざりした思いで、「はあ、お願いします」と先を促す。
二〇〇〇年に創設された介護保険は、介護を社会全体で支えるという目的で国が制度を作り、市町村が運営している。介護が必要だと認められると、要支援1から要介護5の区分に応じて、デイサービス施設での機能訓練や、自宅での身体介助や生活支援サービスなどを、ほとんどの人は一割の自己負担で受けることができる。
「サービスを受けられるという点で、現物給付型の保険と呼ばれているわけね」
鷺沼さんの説明がくどくど続いたが、私は上の空だった。早く帰らなければ、母が何をしでかすか……。
「でもこれは、国や市町村による公的な介護保険の話。それとは別に、民間の介護保険というのがあるの」
じれったい思いを抱え、「へえ、知りませんでした」と適当に相づちを打つ。
「それはね、民間の保険会社が、『介護保険』という同じ名前で販売している金融商品で、介護が必要になればお金が出る。だからこちらは、現金給付型の介護保険と呼ばれるの」
「はあ……」
別世界の夢物語を聞かされている思いだった。現金を給付されるといっても、すでにそういうホケンにちゃんと加入していたら、という話だろう。
「八年前、うちの共同購入クラブではメンバーの大半がその保険に加入したの。森下さんのお母さんも入ってるよ!」
「ほんと!?」
知らなかった──鷺沼さんは、にんまりとうなずいた。
「要介護2の認定で、一時金が五百万円」
「五百万! でも介護申請すらしていない母には、先が長い話だわ……」
「じゃあ、要介護2にすればいいじゃない」
何を言っているのだろう、この人は。そう思って鷺沼さんの顔をまじまじと見た。でも、その目は冗談を言っているようには見えなかった。
17 沈黙の患者「残念だけど、無理だと思う。仮に母が介護認定の調査を受け入れたとしても、『私は何でもできます。お台所も、全部私がやってるんです!』と言い張るのが目に見えてる。そういうところは譲らない人なのよ。ホント、嫌になる!」
またもや母への不満が爆発してしまう。すると鷺沼さんは急須に今度は熱湯を注ぎ入れた。
「私の母を貸してあげようか?」
まるで「傘を貸そうか」とでも言うような調子だった。
「え?」
それでどうするというのか。
「うちの母は要介護2だから。要介護者のレンタルよ」
「えっ? それってつまり、替え玉?」
「シッ」と言い、鷺沼さんは唇に人差し指を当てた。
「要は介護負担のシェアリングよ。私もね、森下さんの苦労はよく分かる。食事の世話やトイレの誘導、失敗の後始末を繰り返す日々……嫌になって当然よ。でもね、私の母に介護保険の一時金が下りて、生活に余裕が出たら、今度は母に感謝する気持ちが生まれてきて、いろんなことが許せるようになったの」
鷺沼さんは、自分の言葉にうなずきながらほほ笑んだ。
でも──と私がためらいを口にすると、鷺沼さんは表情を変えず、急須から湯飲みにお茶を注いだ。
「大丈夫よ。大したことじゃない。もらって当然のお金をちょっと早くいただくだけのこと
なんだから」
それから鷺沼さんは、「レンタル」の手順について淡々と語った。まず、要介護認定の申請を行い、調査員が私の自宅を訪れる日にちが決まったら、鷺沼さんに連絡する。そして調査日の朝、鷺沼さんがグループホームに入所している鷺沼さんのお母さんを我が家に連れてくる。入れ替わりに私の母を鷺沼さんが連れ出し、その間に調査を終える。介護認定は一か月以内に下りるので、それに合わせて介護保険金を請求。無事に保険金が出たら、私から鷺沼さんに礼金を支払う。そんな流れだった。
二煎目のお茶は、熱くて渋みの強い味だった。
沈黙の患者

「あのまま、一人で焼け死んだくれたら……」高齢化社会に潜む“犯罪未満”の出来事に心揺れる人々を綴る、傑作心理サスペンス。デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の新境地!
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