この世界は、生まれる価値はないが、生き続ける価値はあるかもしれない――と説いた哲学者の小島和男氏による新書『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』が話題です。「生まれること」への抵抗である本書を、同じく哲学者である槇野沙央理さんは、どう読んだのでしょうか? 書評をご紹介します。

望まぬ初期設定に抵抗するために怒り、復讐する
幼少期、私は岡山の小さなアパートで両親と暮らしていた。そのアパートのお風呂はとても小さく、大人と子どもと2人で入ればもう窮屈に感じられるくらいの大きさだった。両親は私を交代でお風呂に入れてくれた。そこで私は2人の体を自分なりに観察し、父と同じ体を持つことを決意した。理由は単純に、父の体の方が好きだったからだ。
「さおちゃんの体にはおちんちんは生えてこないのよ」。私の人生はここで一度壊れた。私には、いくら待ってもおちんちんが生えてくることはなく、その代わり、母のような丸い体になるという話であった。ここで私が高齢者なら憤死している。しかし、私の人生はまだ始まったばかり。誕生して程なく私は、自身の望まざる初期設定を一生背負わされることに気づかされたのだった。
小島の『生まれたくなんかなかったのに』は、不条理の連続に苦しみながら老いて死ぬというこの「始める価値」のない人生を、少しでも「続ける価値」のあるものにするために書かれたエッセイである。実のところ、私がなぜこの人生を続けているのかは全く明らかではない。私はまだ、自分の人生に続ける価値があるとは思っていない。ただ自殺する機会から遠ざかっているだけであり、生きようと思って生きているわけではない。しかし、小島のように、「続ける価値」を少しでも認めていこうという姿勢には共感できる。
私にとって「続ける価値」を認めていくことの一つは、自身にあてがわれたこの初期設定を引き受けるための認識的資源を増やしていくことだ。私の人生に必要だったのは、一体何だったろうか。私の体にペニスを発生させる医療技術だろうか。それとも、戸籍上の性別の記載を、私が希望するものに変更できることだろうか。これらが必要だったのであれば、経済的・精神的・身体的・手続的負担はまだ無視できないものの、すでにある程度は実現している。
だが、私にはもっと多くのことが必要だったように思う。それは、自分で自分のことを選べることだ。「私」ではなく「俺」を使いたかった、スカートではなくズボンの制服が良かった、赤でなく黒いランドセルが良かった。これらの選択は、令和のいま、かなりの程度認められうる。しかし根本的な問題はどの程度理解されているだろう。なぜ他人が私の一人称を決めるのか? なぜ他人が私の服装を決めるのか? なぜ他人が私のランドセルの色を決めるのか?

近年、アメリカの一部の州で人工妊娠中絶が禁止されたように、自分のことを自分で決められる権利は決して十分に保証されていないし、すでに保証されていることでも損なわれうる。自己決定の権利は、誕生させられた存在が最低限の尊厳のもと生きられるようにするために必要であるにもかかわらず。
とはいえ、私は不満の声をあげることができる。本を読み、文を書き、ものを言うことができる。私は研究者であるので、この特権を市井の人たちより幾分か多く享受している。また、私に暴力を振るう者がいれば、今のところ私は、声を出したり身体を使ったりして抵抗することができる。アジア系女性である私の体力などたかが知れているが、私の体に勝手に触るなと叫ぶことならできる。できないこともある、それはわかっている、しかし私はあえてできると言う。どんなに不利で受動的な状態にあっても、そこにおいて私が世界をどう引き受けるかは、私自身に託されている。
とはいえ、ある程度の条件が揃わなければ、抵抗すらできない、抵抗したとしても抵抗だと認められないことはありえよう。私は、狭いケージに詰め込まれ、口にチューブを突っ込まれ、胃に直接食料を流し込まれるわけではない。オスであることが判明した瞬間に粉砕機にかけられるわけではない。強制的に妊娠させられ、搾乳機をつけられ監禁されるわけではない。
抵抗が抵抗という形をとることができるには、まず人間に生まれる必要がある。できたら裕福な家庭に、できたら男性として、できたら白人として、できたら先進国に、できたら英語圏に生まれるほうがよい。できたら、重度の障害があっても意思を無視されずに済む条件のもとに生まれるほうがよい。できたら親が大卒で、できたら両親が揃っていて、できたら都会で育つ方がよい。
これらの条件は、全てが同程度の重要性を持つわけではないため、なくてもやっていける場合もある。だが条件によっては、一つでも欠けているとそれだけでかなり抵抗する方法(抵抗したときに抵抗を認識してもらえる方法)が限られてくる。とくに、人間と呼ばれる種に生まれず、なおかつ、人間の食の好みに合致してしまったり、人間に好まれない外見をもちながら人間の生活圏に生息していたりする場合には、その生存は著しく脅かされる。
例えば猫は、非人間動物かつ非食用で、そのうえ比較的人間に好まれる外見をしているが、それでも彼女らの生は容易とは言えない。なぜなら彼女らの生態は、人間による世話にかなりの程度依存しているにもかかわらず、人間の方は、彼女らを十分に世話しなくとも、ほとんど責任を問われないからだ。小島が世話をしていた恩義猫「トラちゃん」(本書第四章)も、小島の自宅に住まうまでは、天候の影響を受けやすく、外敵がおり、安定した食事を得ることが難しい環境にいた。小島が人間の責務を果たしたから良かったものの、法的後ろ盾の弱いトラちゃんが落ち着いた老後を過ごすことのできる保証はどこにもなかったのだ。
私は、抵抗を抵抗としてある程度受け止めてもらえる身分で生を継続している。だから、せっかくなので抵抗をやらせていただくことにした。これは私にとって、誕生させられたことへの復讐であり、怒りの表明なのである。小島は粛々と「続ける価値」を高める活動をしているが、私はいつまで経っても「続ける価値」を信じられそうになく、生まれさせられてきたことに憤激していきたい。
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小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』をご覧ください。
生まれたくなんかなかったのに

2026年5月27日発売『生まれたくなんかなかったのに』(小島和男著)について
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