生まれたくなかった。でも、生まれてしまった。その感情から始まる哲学――反出生主義を研究する小島和男氏による新書『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』が5月27日に発売になりました。「生まれたくなかったのに、なぜ生きるのか」を問う本書より、「第4章 猫が先に死ぬのが辛い」の2回目をお届けします(第1回)。

不妊・去勢手術された元野良猫と
うちの猫は全員、保護猫だ。そして、全員が「さくらねこ」である。
繰り返しになるが、さくらねことは、不妊・去勢手術を受けた猫のことだ。手術済みの目印として、耳の先端を小さくV字型にカットする。その形が桜の花びらに似ていることから、さくらねこと呼ばれている。耳は手術で麻酔が効いている間にカットするので、痛くはない。
公益財団法人どうぶつ基金が推進している「さくらねこTNR」という活動がある。TNRとは、Trap(捕獲)、Neuter(不妊・去勢手術)、Return(元の場所に戻す)の頭文字だ。野良猫を捕獲し、不妊・去勢手術を施し、元の場所に戻す。これによって、野良猫の繁殖を防ぎ、殺処分される猫を減らそうという活動だ。
環境省は、行政・地域住民・ボランティアの三者合意を地域猫活動の原則としているが、合意を取り付けるのは容易ではない。猫嫌いの住民もいれば、「野良猫に手術をするなんてかわいそう」と言う住民もいる。合意形成に時間がかかっている間にも、猫は繁殖し続ける。その点、TNR先行型の活動は、まず手術を行い、繁殖を止めることを優先する。
日本では、かつてすごい数の犬猫が殺処分されていた。1980年代末頃まで、犬猫の殺処分は、年間100万頭規模だった。現在は大幅に減ったが、それでも年間で、数千~1万頭規模で殺処分がなされ、中心は猫だ。野良猫が繁殖し、増えすぎた仔猫が保健所に持ち込まれ、引き取り手がなければ殺処分される。
仔猫が生まれなければ、殺処分する必要はない。TNR活動は、その根本的な解決を目指している。
不妊・去勢手術は、猫にとってかわいそうだと思う人もいるかもしれない。「自然に反する」と言う人もいる。しかし、手術をしなければ、その猫は繁殖し、仔猫を産む。その仔猫たちが過酷な環境で苦しんだり、殺処分されたりすることを考えれば、手術をするほうがはるかに倫理的だ。
反出生主義の観点から言えば、猫の不妊・去勢手術は、まさに「生まれてこないほうが良い」を実践していることになる。存在しなければ、苦しむこともない。殺処分されることもない。人間が猫に代わって、その選択をしているのだ。猫には避妊の概念がないが、人間にはある。人間が代わりに、猫の繁殖を止める。それは、猫のためにもなる行為だと私は思う(※もちろん人間にも同じことをしようという話では決してないので注意)。
それでも猫と暮らす理由
猫は先に死ぬ。死別は辛い。それなのに、なぜ猫と暮らすのか。
答えは単純だ。保護猫がたくさんいるからだ。
日本には、飼い主を必要としている猫がたくさんいる。保護施設にいる猫、地域猫として暮らしている猫、野良猫として過酷な環境で生きている猫。その猫たちは、人間の都合で存在させられ、人間の都合で捨てられ、あるいは人間の無関心の中で生きている。死別が嫌だからといって、猫を飼わないという選択は、私にはできない。飼い主を待っている猫がいるのに、自分の悲しみを避けるために見て見ぬふりをすることは、私にはできない。

もちろん、猫を飼わないという選択も尊重されるべきだ。アレルギーがある人もいる。住環境が許さない人もいる。経済的に難しい人もいる。仕事が忙しすぎて世話ができない人もいる。猫を飼わない理由はさまざまで、それを責めるつもりはない。
しかし、「死別が辛いから飼わない」という理由は、私にはあまり受け入れられない。それは、自分の感情を猫の命より優先しているということだからだ。今、飼い主を待っている猫がいる。もちろん無理はしなくていいが、その猫を引き取れば、その猫は幸せになれるかもしれない。暖かい部屋で、美味しいご飯を食べて、安心して眠れるかもしれない。その機会を、自分の悲しみを避けるために奪うのは、エゴだと私は思う。
トラちゃんとの1年間は、私にとってかけがえのない時間だった。トラちゃんにとっても、そうであったと信じたい。大学のキャンパスで寒さに震えていたトラちゃんが、暖かいこたつの中で幸せそうにしていた姿。高級なささみを食べて二度見した姿(※そのために殺された鶏のことは、ここではとりあえず上等な棚に上げておきます)。全力で感謝を伝えてきた姿。その記憶は、今でも私の中に生きている。
1年間だけだった。もっと長く一緒にいたかった。でも、その1年間がなければ、トラちゃんは大学のキャンパスで寒さに震えながら死んでいたかもしれない。少なくとも、最後の1年間、トラちゃんは暖かい場所で、美味しいものを食べて、愛されて過ごすことができた。それは、何もしないよりはずっと良かったと思う。
死別の悲しみは、一緒に過ごした時間の価値を否定するものではない。むしろ、悲しいのは、それだけ大切な時間だったからだ。悲しみを恐れて猫と暮らさないことは、その大切な時間を最初から放棄することになる。
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続きは、小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』をご覧ください。












