生まれたくなかった。でも、生まれてしまった。その感情から始まる哲学――反出生主義を研究する小島和男氏による新書『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』が5月27日に発売になりました。「生まれたくなかったのに、なぜ生きるのか」を問う本書より、「第3章 親が嫌いだ」を3回にわけてお届けします。

「産んでやった」「育ててやった」は間違い
親が嫌いだ。こう言うと、世間では眉をひそめられることが多い。「育ててもらったのに」「親不孝だ」「そんなこと言うもんじゃない」。親が嫌いだと口にすることには、なぜかタブーのような空気がある。テレビドラマでも映画でも、親子の絆は美しいものとして描かれることが多い。親を嫌う子どもは、わがままな存在として描かれがちだ。
しかし、冷静に考えてみよう。世の中には良い人もいれば悪い人もいる。優しい人もいれば意地悪な人もいる。それと同じように、良い親もいれば悪い親もいる。子どもを愛し、尊重し、その成長を支える親もいれば、子どもを虐待し、搾取し、傷つける親もいる。親だからといって自動的に良い人間になるわけではない。当たり前のことだ。
「産んでやった」「育ててやった」。こういう言葉を親から言われた経験がある人は少なくないだろう。しかし、産んでくれと頼んだ覚えはない。育ててくれと頼んだ覚えもない。子どもを産んで育てることを選んだのは親であり、その責任は親にある。子どもがそのことに感謝する義務はない。いわゆる「中2病」っぽいが、生まれる前は存在していないのだから、真理だ。
私は大学で学生たちと話をする機会が多いが、親との関係に悩んでいる学生は少なくない。「親が嫌いなんです」と打ち明けてくる学生に、私は言う。「嫌いなら嫌いでいいんじゃないか」と。親を好きになれないことは、道徳的な欠陥ではない。嫌な人間を嫌いだと思うのは、むしろ健全な感覚だ。

産んでくれたことに感謝する必要はない
「産んでくれたことに感謝しなさい」。これもよく聞く言葉だ。しかし、私はこの言葉に強い違和感を覚える。
子どもは、自分の意志で生まれてきたわけではない。生まれる前に「生まれたいですか?」と聞かれた人はいない。すべての人間は、自分の意志とは無関係に、この世界に存在させられたのだ。
では、誰が子どもを存在させるのか。親である。そして、親が子どもを作る理由は何か。この本で繰り返し登場する哲学者ベネターは『生まれてこないほうが良かった』の中でこう述べている。「人は決してその子どものために子どもを持つはずはないのである」。
子どもがほしい、跡取りがほしい、孫の顔が見たいという親を喜ばせたい、寂しいから、老後の面倒を見てもらいたいから……。理由はさまざまだが、いずれも親や周囲の人間の都合であって、生まれてくる子ども自身のためではない。
ベネターはさらにこう続ける。「その子どものためにその子どもが存在させられるということは不可能である」。これは論理的に考えれば当然のことだ。存在していない者の利益を図ることはできない。存在していない者には、利益も不利益もない。
子どもは、存在するようになって初めて、利益や不利益を被る主体となる。つまり、子どもを作るという行為は、常に親の側の都合で行われるのであって、子どものためではありえないのだ。
だとすれば、「産んでくれてありがとう」という感謝は、論理的に奇妙なものになる。頼んでもいないことをされて、なぜ感謝しなければならないのか。しかも、生まれてきたことで、私たちはさまざまな苦痛を味わうことになる。病気、怪我、失恋、失業、老い、そして死への恐怖。生まれてこなければ、これらの苦痛を味わう必要はなかった。
もちろん、生まれてきたことで良いこともある。美味しいものを食べる喜び、美しい景色を見る感動、愛する人との時間。しかし、それらの良いことがあるからといって、「産んでくれてありがとう」と言わなければならない理由にはならない。良いことも悪いことも、すべては親が子どもを存在させた結果として生じたものだ。子どもがそれを頼んだわけではない。
「でも、生まれてきて良かったと思っているなら、感謝すべきではないか」という反論があるかもしれない。しかし、これも論理的には成り立たない。生まれてきて良かったと「思う」ことと、生まれてきたことが「良かった」こととは別の話だ。私たちは、自分が存在しなかった場合と比較することができない。存在しなかった自分というものを想像することは不可能だからだ。「生まれてきて良かった」という感覚は、生まれてしまった後で、この人生を肯定しようとする心理的なメカニズムに過ぎない。
さらに言えば、「生まれてきて良かった」と思えるかどうかは、生まれた後の環境や経験に大きく依存する。恵まれた環境に生まれ、愛情深く育てられ、機会に恵まれた人は、「生まれてきて良かった」と思いやすいだろう。しかし、虐待を受け、貧困の中で育ち、苦しみばかりの人生を送っている人にとって、「生まれてきて良かった」と思うのは難しい。そのような人に「産んでくれたことに感謝しろ」と言うのは、残酷だ。
親も被害者である
とはいえ、私は親を一方的に責めるつもりはない。親もまた、この世界に生まれさせられた被害者だからだ。
親だって、自分の意志で生まれてきたわけではない。親の親、つまり祖父母の都合で存在させられた。そして、この社会の中で育ち、「子どもを持つのが当たり前」「結婚したら子どもを作るもの」という価値観を刷り込まれてきた。少子化が問題だと言われ、子どもを産むことが奨励される社会の中で、子どもを作らないという選択をするには、相当な意志の力が必要だ。
以前私は、「人はいずれ死ぬのに、なぜ生きなければならないのか?」という論考の中で、こう書いた。「子どもを作った人個人に全ての責任を帰すことが常に正当であるわけではなく、社会的に避けがたかった部分があれば、それについてはいくぶんか免責されてよい」。社会が出生を奨励する中で、親個人だけを責めることには限界がある。
だから、親を恨んで自分の苦痛を増やすのは得策ではない。恨みは恨む側を蝕む。親のことを考えるたびに怒りや悲しみを感じるのは、自分自身を傷つけることになる。親がひどい人間だったとしても、その事実を変えることはできない。変えられないことに怒り続けるのは、エネルギーの無駄遣いだ。
親の「行動」は責めていい
ただし、これは親の行動をすべて許せという話ではない。産んだこと自体を責めるのは筋が悪いが、産んだ後の行動については、親は責任を負うべきだ。
厚労省の統計(福祉行政報告例)によれば、2023年度に全国の児童相談所が対応した児童虐待相談件数は約22万5000件で、過去最多を更新した。この数字は氷山の一角に過ぎない。相談に至らないケースは、その何倍もあるだろう。身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト、性的虐待。子どもに対する暴力は、残念ながら珍しいことではない。
虐待する親は、明確に責められるべきだ。子どもを存在させた以上、親にはその子どもを適切に養育する義務がある。その義務を果たさないどころか、子どもを傷つけるような親は、非難されて当然だ。
虐待は連鎖すると言われることがある。虐待を受けて育った人が、自分の子どもを虐待してしまうというパターンだ。確かにそのような傾向はあるかもしれない。しかし、だからといって虐待が許されるわけではない。自分が受けた苦しみを、なぜ次の世代に引き継ぐのか。連鎖を断ち切る責任は、大人の側にある。「自分も虐待されて育ったから」という言い訳は通用しない。
虐待とまではいかなくても、子どもを精神的に追い詰める親はいる。過度な期待をかける、他の姉妹や兄弟と比較する、人格を否定するような言葉を浴びせる、子どもの意見を一切聞かない、子どもの進路や人生の選択に過剰に介入する。こうした行動も、子どもに深刻なダメージを与える。「あなたのためを思って」という言葉で正当化されることが多いが、子どもを傷つけている事実は変わらない。
「毒親」という言葉がある。子どもの人生に悪影響を与える親のことを指す。身体的な虐待だけでなく、過干渉、無関心、精神的な支配、経済的な搾取など、さまざまな形態がある。自分の親が「毒親」だと気づくことは、子どもにとって辛い経験だ。しかし、気づくことが回復への第一歩でもある。
そのような親からは、物理的に離れることを勧める。同じ空間にいる限り、傷つけられ続ける。逃げることは恥ではない。自分を守るための正当な行動だ。未成年で自力で逃げられない場合は、児童相談所や警察、学校の相談窓口など、頼れる場所を探してほしい。成人しているなら、家を出ることを真剣に考えるべきだ。経済的な理由で難しい場合もあるだろうが、自分の心身の健康を守ることを最優先にしてほしいと思う。
生まれたくなんかなかったのに

2026年5月27日発売『生まれたくなんかなかったのに』(小島和男著)について











