生まれたくなかった。でも、生まれてしまった。その感情から始まる哲学――反出生主義を研究する小島和男氏による新書『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』が話題です。「生まれること」への抵抗である本書を日本初の哲学系YouTuberであるネオ高等遊民さんはどう読まれたのでしょうか。書評をご紹介します。

「生まれたくなかった」素朴な感情が哲学となる本
「生まれたくなかった」という言葉は、よくよく考えると哲学的な言葉だなと思います。というのもまず、生まれるということは、当たり前ですけど同意が取れません。同意が取れないものを一方的に産むのです。しかも生まれたあとの出来事は、いっさい肩代わりできません。その子の人生を生きることも、苦痛に耐えることも、老いることも、死ぬことも、何一つ代わってやれません。
しかも、どうやらすべての出生が同じ形式で成立しているようです。本人の参加なしに決定され、その結果を本人だけが引き受けるという形式で、回避もできない。その上、なぜ出生がそのような仕組みでなければならないのか、世界の側に特に必然性もなさそうだときている。
つまり、子どもを産むとは、その子にしか生きられず、その子にしか死ねない生涯を、一方的に負わせる行為です。ところが私たちは、それを「誰でも生まれる」「命は尊い授かりもの」などと平板化し、あとから自分の出生を肯定するよう求められています。こんな一方的な話が、世間では奨励さえされる始末です。こりゃひどい話です。
そう考えると、「生まれたくなかった」とは、その自分に降りかかった純粋に一方的な出来事に対して、事後的な承認を拒む言葉だと思えてきます。みんなも同じように生まれるという事実によって、なぜ私まで自分の出生を肯定しなければならないのか。自分の出生という異常な事態を、万人に共通するありふれた出来事へと変換・埋没させないための異議申し立てです。小島和男『生まれたくなんかなかったのに』は、その抵抗から始まる人生論です。

「反出生主義」という考え方の基本にあるのは、「子どもを産むべきではない」という倫理原則です。つまり一般的には、親になりうる人間の倫理なのですが、本書はそこから少し視点をずらして、「生まれたくなかった」という子の視点に立っています。誰でも親になるわけではないけど、誰もが必ず子ではある。だからこの本は、生まれてしまったひと、つまり、文字通りすべてのひとが当事者であることがらを取り扱っています。ターゲットが広すぎる!
また、副題に「それでも生きるための哲学」とある通り、「生まれたくなかった」というやり場のない、後悔に近いが後悔ではあり得ない、そういう思いを無理に否定することなく、よりマシな人生を生きていきたい人のための本です。そして小島和男その人も「生まれたくなかった」と思っているようです。だから反出生主義という思想を教科書的に説明するのではなく(それはそれで『反出生主義入門』青土社という本がある)、自分の生活感覚にまで引き入れて書いている、結構切実な本です。目次を見ても、ご本人がふだん考えているようなことばかりです。
本書でとりわけ私が紹介したいなと思ったのは2つ。第3章の「親が嫌いだ」という箇所と、最終章の結論にあたる箇所です。まず「親が嫌いだ」というのは、相当言いにくいことではないでしょうか。親から明確にひどいことをされた人だけでなく、別に特に何もなくても「嫌い」というのは普通にあり得る。しかしそれを口に出すと、何となくこちらが悪いことになりがちです。親を嫌うなんて人としてどうなのか。他人から言われるのみならず、自分で自分を責めることもあるかもしれない。
そこで小島先生は、反出生主義の考えをベースに、好悪の感情と、親への感謝の問題を切り分ける。親が好きか嫌いかにかかわらず、子ども(つまり私たち自身)は、自分の意志で生まれてきたわけではない。子が親に頼んで産んでもらったわけではない。こじらせた子供が言いそうですよね。「誰も産んでくれなんて頼んでないんですけどー、こちらは被害者なんですけどー」とか。でもこの子の言い分それ自体は100%正しいと認めざるを得ない。だから「産んでやった」などと親から威張られるような筋合いのものではない。ここを区別しないと、子どもは気づいたら生まれていたうえに、そのことに感謝まで要求されることになります。さすがにそれは親に都合がよすぎる。親はむしろ「私どもの個人的な幸福や享楽のために、あなたを産んでしまいました」と申しわけなさそうにしておくくらいでちょうどいいのです。
こういうところが、反出生主義による異議申し立てです。事実、出産というのは、親側の勝手な都合で産むしかない。だから、生まれてしまった側の不満を、甘えや不道徳として処理しない。その結果、親に感謝する気の起こらない人に「あなたの思いはまったくもって正当です、何も悪くない」と言える。こういう話には実際に救われる人がいるでしょうし、何より小島先生自身が救われたんじゃないですかね。むしろ子を産むことこそ甘えや不道徳だったという話ですから。いかなる出生もつねに不同意であり、純粋に一方的な行為であらざるを得ない。言われてみればその通りですし、なんなら言われなくてもみんな知っていますが、これについて倫理的責任を問うというのが反出生主義の眼目なのです。
ところが、本書が進むにつれて、そして最終章になると、小島先生本人は反出生主義的な考え方に救われるどころか、追い詰められているように見えます。というのもまず、本書の第9章「人生に目標は必要か」では、「なくても全然構わないが、あえて何か持ちたいのであれば、苦痛を避け、加害しないという目標はどうか」と提案されています。この目標は、まさに反出生主義にふさわしい。子を産むことはその子への加害になりうるから悪いという思想なのだから、すでに生まれてしまった人間の生き方もなるべく加害しないことに向かうのは自然です。人生に目標なんかなくてもいいという話も、なるべく人を害しないようにしようという話も、それなりに共感できると思います。しかし小島先生は、そこで止まらないんですよ。ここからがおもしろくなる。最終章には、次のような記述があります。
加害しないという目標は実際にはほとんど不可能だ。生きているだけでどうしたって誰かを害してしまう。この本を書いていることによってさえ、誰かを傷つけているだろう。そして、そのことが耐えがたい。だからますます自分は生まれたくなかった。
なんと、「生まれたくなかった」という思いが再生産されているのです。いわば、無限ループ。このループによって小島先生の苦痛はますます増大してしまう。ここまで来ると、私なんかには共感が難しくなってくるというか、申し訳ないんですが正直ちょっとウケる。「いや、加害はある程度はお互い様なんだから、そんなに自分を責めなくても……」と思ってしまう。つまり、冒頭でいった「みんな生まれるんだから……」というのと同じような平板化の論理を持ち出しちゃうんですよね。小島先生はもちろんそうは考えないようで、誰もが避けきれない加害についても、「仕方がない」と免除しない。ここまでくると、本書は生きやすくなる・救われる考え方を提示するというよりも、反出生主義という思想が要求する論理を突き詰めています。小島和男という人物において学説と生き方の一致がきわまってしまっている姿が、結論部分で見えてくる。
しかし、これぞ哲学者の人生論であり、哲学者の生き方です。そうした葛藤が見えると、反出生主義が単なる奇抜な主張ではなく、ひとりの人間が本気で生き方を考えた末にたどり着いた思想なのだということもよく伝わってきます。本書は、「生まれたくなかった」という素朴な感情や言葉が、哲学のきっかけになることが示されており、ひとつの哲学的主張が人生論として結実する傑作です。
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小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』をご覧ください。
生まれたくなんかなかったのに

2026年5月27日発売『生まれたくなんかなかったのに』(小島和男著)について











