2025年3月に発売され、その切ない設定と胸を打つ結末が多くの読者の心に深く残った越尾圭さんの小説『ぼくが生きるということは、きみが死ぬということ』(通称・ぼくきみ)。
それから1年が過ぎ、待望の続編『もう一度だけ会えたなら、ぼくとわたしは──』(通称・ぼくわた)が、2026年6月11日に発売となりました。
前作で命の入れ替わりを経験した十和田航平と、10年前に母を亡くした娘・明里が織りなす「その後の奇跡」を描いた感動作です。
舞台は、あの切ない別れから10年が経った世界。「もう一度ママに会いたい」と願う明里と、小説家となった航平が、試行錯誤の末に七夕の夜の再会を試みます。「10年間、それぞれが胸に抱え続けてきた想い」がどう交錯していくのかが読みどころです。

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▶10年越しの、不意の再会
物語は、小説家となった航平と、遺された娘・明里、二人の視点で交互に紡がれていきます。
「やりたいこと、あきらめないでね。」
“あの人”の言葉を胸に夢を叶えた航平。しかし、現実は甘くない。地元のサイン会で突きつけられる知名度のなさに、焦りと諦めが募る。「早く終わりたい」そう思った終了間際、航平の前に現れたのは──。
静かに運命の歯車が回り出す、今回は航平の視点から物語の冒頭を少しだけご紹介します。
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(本編より一部抜粋)
十和田航平は、いたたまれなくなっていた。
誰も来ない。
目の前を人が通り過ぎていくが、誰も足を止めてくれない。一瞬、ちらりとこちらに視線を向ける人もいるけれど、聞いたことのない作家だとわかると、自分の目当ての本を探すように航平の前から姿を消していく。
桜の開花を間近に控えた三月十五日。
土曜日のため、百貨店にあるこの書店には結構な客が入っていたが、航平のサイン会のテーブルには誰も立ち寄らない。手伝ってくれている若い女性書店員も、申し訳なさそうな顔をしている。申し訳ないのはこっちだよと思いながら、テーブルの脇に立っている幟を横目で見る。
〈地元・二子玉川の小説家 とわ先生サイン会〉
と書かれている。ある小説新人賞の優秀賞を八年前に受賞し、「とわ」として小説家デビューを果たした。大賞ではなかったため、文庫でのデビューだった。その後も何作か文庫を刊行したが、たいして売れてはいない。しかし地元の作家を応援してくれる書店からの依頼で、サイン会を行うことになったのだった。
先週、二年ぶりに新刊を出したのだが、最初は自分なんかにサインを求める人がいるとは思えなくて断ろうとした。しかし航平の小説を気に入ってくれている書店員が、「ぜひとも」と言うので、その熱意に押されて承諾してしまった。その書店員というのが、隣にいる彼女だ。今頃、やっぱりやめておけばよかったと後悔しているかもしれない。
それにしても、これほどまでに認知されていないとは。ネット上で自分の名前や作品で検索しても話題にしている人が少ないから、知名度のなさは感じていた。しかし、こうしてリアルな場で現実を見せられるというのも、なかなか応えるものがある。
出版社の担当編集者はほかの予定が先に入っていたらしく、「当日はとわさんにお任せします」ということで来ていない。そう聞いた時は心細さを感じたが、この惨状を見られずに済んだと、少しだけ安心する気持ちもあった。
とはいえ、どんどん焦りが募ってくる。幟から目を戻して、テーブルに視線を落とした。
「ごめーん、遅くなっちゃった」
聞き慣れた声に引っ張られて顔を上げる。
「日菜乃。来てくれてよかった。ちょっと遅かったけど」
ベージュのスプリングコート姿の西崎日菜乃は手を合わせて謝ると、「石黒さんが遅刻してくるんだもん」と後ろに顔を向けた。久しぶりに見るかつての上司の石黒が、眼鏡の奥の目を細めて苦笑しながら髪を掻いている。仕事の時のスーツとは違い、今日は黒いブルゾンを羽織っていた。
「わりいわりい。二子玉に来るの、久々でよ。乗り換えに手間取っちまった」
「石黒さんも、ありがとうございます。ご無沙汰しています」
「おう。まずは先生、サインをくれよ」
石黒が新刊を差し出してくる。新卒で不動産投資会社の営業部に入って四年ほどは石黒からパワハラまがいの指導を受けたものだったが、十年前の「ある現象」を経て、そうした扱いは受けなくなった。
航平が小説家デビューとともに会社を辞めると伝えた時には、おまえは必要な戦力だからと引き留めてくれた。だが航平の意志は固く、退職するに至った。すると石黒は意外にも新刊が出るたびに買ってくれ、読み終わるとLINEで感想を送ってきてくれていた。仕事の時の厳しさとは違い、やたらに褒めた口調で送ってくるものだから、最初はむずがゆくて仕方なかった。
そして日菜乃。彼女は同じ会社の同期だった。小説家としてデビューする前から航平と付き合い始め、受賞を知った時には自分のことのように喜んでくれた。いつもより少し高級なお店に、二人でぱーっと飲みにいったのを覚えている。
思えば小説家としては、あの頃がピークだったような気がする。もちろん小説だけでは食べていけないので、会社を辞めた後は貯金を切り崩しつつ宅配などの単発バイトを入れて、なんとか生活を続けている。どちらも不安定な仕事だが、人間関係がほとんど発生しないから、精神的には会社員時代よりも安定していた。
今日は二人とも会社が休みのため、事前に示し合わせて来てくれた。基本的にサイン会は、開催する書店で購入した本にサインを入れる。今日はサイン会のために、二人ともこうして新刊を買いに来てくれたのだった。もっとも日菜乃には、出版社から送られてきた見本を事前に渡してあったけれど。
航平は、石黒、日菜乃の順に、それぞれの氏名と日付を入れてサインした。

「ありがとよ。やっぱ、サインを見ると小説家って感じがするよな。『とわ』ってペンネームも書きやすいだろ。効率的でいい名前だな」
表紙をめくった扉の部分に入れたサインを前に、石黒が目を細めている。
「たしかに、ひらがな二文字は楽ですね。本名が少々長いので、なおさらそう感じますよ」
「だろ?」
「わたしも『とわ』って名前、いいと思うよ。サイン、ありがとうね。ところでお客さん、結構来た?」
日菜乃が本を抱えたまま周囲を見回しながら訊いた。
「最初のほうに少し……」
開始してしばらくしてから、三人ほどが来てくれた。しかし航平のことを知っていたわけではなく、地元の作家だから興味を持ってという理由だった。それでもありがたく、一人一人なるべく時間をかけて応対した。すぐにサインし終わってしまっては、また誰もいなくなってしまうからだ。
「そっかあ。後半に巻き返せるといいね」
「十和田もまだまだだなあ。頑張れよ」
石黒が手を伸ばしてきて、航平の肩を軽く叩いて笑う。
「石黒さんは今、部長なんですよね。日菜乃から聞きました」
「おうよ。そのうち社長になって、社員全員に十和田の本を配ってやるよ」
「それは助かります」
「その頃には西崎ちゃんは課長かな」
日菜乃は三年ほど前に係長になった。仕事は相変わらず多忙だったが、休みの日はなるべく航平と会ってくれている。日菜乃の主義もあって籍は入れておらず、住んでいる場所も別々だ。航平は以前住んでいた上野毛のアパートが建て替えでマンションになったが、引き続き同じところに住んでいる。日菜乃は浅草に近い田原町から、三軒茶屋に引っ越した。航平の自宅だけでなく会社からも近いので便利らしい。
「これ以上、忙しくなんてなりたくないですよ」
日菜乃が肩まで伸ばした髪を片手で掻き上げながら笑う。以前は短かったが、係長に昇進したくらいから伸ばし始めた。ポジションが変わったから気分も変えようと思って、と当時言っていた。
二人と話しながら、航平はそれとなく店内に目を向けた。やはり、誰も来ない。間をもたせるために、できるだけ二人にいてもらいたい。
ところが石黒が腕時計に目を落とし、「そろそろ帰らねえと」と右の指で顎を軽く掻いた。
「もうですか?」
航平が訊ねると、石黒はサイン本を鞄に仕舞いながら答えた。
「カミさんと出かけるんだよ。そっちの約束のほうが先に入ってたからな。都合つけてこっちに来たんだ」
「そうでしたか。わざわざすみません」
「いいってことよ。西崎ちゃんはどうする?」
「わたしはもう少しだけいます」
そう聞いて航平は安堵する。
「おう。それじゃ、また月曜な。十和田、次の本も待ってるから。早く出せよ」
「頑張ります」
石黒は二人に手を振ると、書店員にも軽く会釈をして去っていった。
「会社の方ですか?」
会話で察したようで、書店員が控えめな声で訊いてきた。
「ええ。前の会社の上司です。こちらの彼女は同僚で」
航平に紹介され、日菜乃が頭を下げてから言った。
「まだちょっとお客さんが少ないみたいですね。わたしはとってもいい小説を書くなって思ってるんですけど」
「そうなんです。もっともっと皆さんに知ってもらいたいです」
書店員が興奮気味に日菜乃に同意する。日菜乃が過去の作品を挙げながら、ここがよかったなどと話し始めると、書店員も負けじと応じている。二人のやり取りを間近に聞いて、航平は照れくさくなってきたが、こういうふうに推してくれる人がもっと増えるといいのになと思う。
ふと、「二子玉が地元なんだって」という男性の声が聞こえてきた。テーブルのすぐ近くで若い男女が足を止め、こちらをうかがっている。
「『とわ』……って作家、知ってる?」
「知らない。でも、地元なら応援したいかも」
女性の問いに、男性がそう応じる。
航平が「来い、来い」と念じていると、男性が航平に声をかけた。
「サインいただけるんですか」
来た。
航平は笑顔を意識してすぐに答える。
「はい。こちらの最新刊を購入していただければサインをお入れします。レジのほうに積んでありますので」
「なるほど。じゃあ、一冊お願いしようかな」
男性は連れの女性とレジのほうに向かい、すぐに戻ってきた。書店員が、テーブルの上に置いてある白い小さな紙とボールペンに手を向ける。
「お買い上げ、ありがとうございます。お宛名をご希望される場合は、こちらの紙にお願いします」
「名前も入れてくれるんですか。お願いします」
男性はペンですらすらと名を書いて差し出してくる。航平は礼を言いながらサインをして本を返した。
「楽しみです」
男性が本をバッグに入れ、この場をあとにする。去り際、女性が「有名になるといいね。価値が出るかも」と男性に語りかけた。二人は笑いながら航平の前から消えた。
「よかったね」
少し離れたところに移動していた日菜乃が戻ってきて、嬉しそうに笑みを浮かべた。書店員もほっとした様子だ。
「日菜乃がいる時に来てくれてよかったよ。お客さんがいるって証明できたからね」
「ばっちり目撃したよ。これを機にファンになってくれるといいね。さて、わたしもそろそろ帰ろうかな」
「今日はありがとう。じゃあ、また」
「うん、じゃあね」
日菜乃が航平と書店員に手を振りながら帰っていく。書店員がいるからはっきりとは言わなかったけれど、この後、日菜乃は航平の自宅に来る予定になっている。サイン会の打ち上げということで、料理とお酒を用意しておいてくれるそうだ。その準備のために切り上げたのだった。
ともあれ、お客さんが来てくれて安堵した。この調子で残りの時間も乗り切れば、なんとか面目は保てるはず。
ところが、それから誰一人やって来なかった。足を止める人はいるものの、やはりそこまでで、知らない作家とわかると足早に立ち去ってしまう。
残り二十分ほどになった。このまま誰も来なかったとしても、あと二十分。それだけ耐えれば今日のイベントは終わる。
航平は下を向いた。書店員との間に会話はなく、ただ時間だけが過ぎていく。
早く終わりたい。
そう思った時だ。人の気配を感じた。お客さんだろうか。航平は顔を上げた。通路の中程に、中高生くらいの髪の短い女性が立っている。オフホワイトのニットを着て、ややゆとりのあるネイビーのパンツ姿。近寄ってくる女性の顔を見て、航平の表情が固まる。
彼女は明里……椿明里だった。
もう一度だけ会えたなら、ぼくとわたしは──

2025年3月に発売され、その切ない設定と胸を打つ結末が多くの読者の心に深く残った『ぼくが生きるということは、きみが死ぬということ』の著者・越尾圭さんの最新作『もう一度だけ会えたなら、ぼくとわたしは──』。本特集では、発売を記念して本作にまつわる様々な情報をお届けします。
【あらすじ】
売れない小説家の航平(とわ)と、十年前に母・美羽を亡くしたとわファンの明里は、満開の桜の下で出会う。航平と美羽が最期の一年を入れ替わっていたという真実を知らされた明里の心には、ある“想い”が生まれる。“もう一度ママに会いたい”──二人は七夕に美羽を呼び出そうとする。大切な人との切ない再会の夜、何を伝えるのか──。











