撮影:齋藤陽道
Titleから青梅街道を西に五分ほど歩くと、荻窪消防署がある。ある日の朝、自転車で消防署の前を通過しようとしたところ、そこには人がせわしなく動く姿が見え、緊迫した空気が漂うのが遠くからでも感じられた。
どこかで火事でも起こったのだろうか。
オレンジ色の防護服を着た消防士が二名、左右から同時に消防車に乗り込み、歩道には交通整理をしている若い男性職員がいる。車はいまにも発車しそうだったから、わたしはその場に自転車を停め待っていると、消防車はすぐにサイレンを鳴らし、大通りを西へと走り去った。車がいなくなったあと少しの静寂があり、わたしとその若い男性は互いに目礼を交わして、彼はそのまま署に戻っていった。
常に緊張を強いられる大変な仕事なのだ。
そしてそのあと、ある思いが突然わたしを捉えた。「彼らの多くは自分の仕事を、わざわざ書き残すようなことはしないのだろう」
いや、消防士だけではない。たとえばタクシー運転手や飲食店のスタッフ、会社勤めのサラリーマンだって同じこと。そして本来であれば語られずに終わった彼らの声を、〈ことば〉として残すのは、ライターやジャーナリスト、時にはカメラマンといった専門家たちの仕事である。
カメラマンのキッチンミノルさんは、働いている人の姿を写真に収めた写真絵本を作っている。どれも撮られた人物の人となりがわかるいい写真だが、そこに彼の自意識を読み取ることはできない。それは写真家の撮った写真というにはあまりにもあっけらかんとしており、何かクセとか屈託のようなものをまったく感じさせないのだ。
「キッチンさんは森山大道やアラーキーみたいな、作家性の強い撮り方はしないの?」
ギャラリーで行っていた展示のあと、彼にそう聞いてみたことがある。キッチンさんはその時少し考えたあと、このように答えた。
「うーん、どうですかね。僕には表現したい自分がないから、それを外に求めているのかもしれませんね」
それは聞きようによっては、少しせつなく感じる答えなのかもしれない。しかし、だからこそ彼の撮る写真には、それ以上でもそれ以下でもない、等身大のその人自身が写っているように見える。己ではなく被写体自身が発する声を、自然な一枚の写真として残すこと。それは簡単そうに見えるかもしれないが、彼にしかできない、職人がする仕事なのだと思った。
『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』などの作品で知られるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、自らの関心を惹くのはいつも、「小さき人々」だと語っている。彼女が作品の中で、その話を聞き書きとして残したのは、戦争や原発事故の犠牲者、そして旧ソ連という壮大な「ユートピア」に翻弄されてきた人たちだ。歴史に名を残す英雄でもなければ、有名人でもない彼らこそが、ノーベル文学賞まで取った作家に、人間とは何であるかを思い起こさせる。
アレクシエーヴィチは、物事を大上段から捉えない。むしろ視線は低く、市井に生きる人々の背中に、この世界に潜む本質的な矛盾や悲しみを感じ取る。その作品は、小さな人生にのみ存在する確かな真実を、時間をかけて集めた伽藍のようなもの。読むものの心をつかんで離さない物語には、折れることのない精神力と、小さき人々への愛が、惜しむことなく注がれていた。
Titleに来ている人もまた、わたしと同じ「小さき人々」なのだろう。わたしは、彼らが店でのわずかなやり取りのあいだに見せる、感情のふるえや人間味に、まだ語られていない〈ことば〉を感じずにはいられない。商売は別にして、そうしたもの言わぬ交感だけが、わたしに人間というものを教えてくれるのだ。
それは本をよむことだけでは得ることのできない、生きた知識なのである。
今回のおすすめ本
『アレクシエーヴィチとの対話「小さき人々」の声を求めて』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、鎌倉英也、徐京植、沼野恭子 岩波書店
作家を追いかけたドキュメンタリーから生まれた、臨場感のあるテキスト。ノーベル賞受賞講演や「小さき人々」をめぐる対話など、アレクシエーヴィチを知るには絶好の一冊。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
○2024年4月12日(金)~ 2024年5月6日(月)Title2階ギャラリー
科学者、詩人、活動家、作家、スパイ、彫刻家etc.「歴史上」おおく不当に不遇であった彼女たちの横顔(プロフィール)を拾い上げ、未来へとつないでいく、やさしくたけだけしい闘いの記録、『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』が筑摩書房より刊行されました。同書の刊行を記念して、原画展を開催。本に描かれましたたリーゼ・マイトナー、長谷川テル、ミレヴァ・マリッチ、ラジウム・ガールズ、エミリー・デイヴィソンの葬列を組む女たちの肖像画をはじめ、エミリー・ディキンスンの庭の植物ドローイングなど、原画を展示・販売いたします。
◯【書評】New!!
『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)[評]辻山良雄
ーー震災で3人の子供を失い、絶望した男性の心を救った米国人女性の遺志 津波で亡くなった外国人と日本人の絆を取材した一冊
◯【お知らせ】New!!
店主・辻山の新連載が新たにスタート!! 本、そして読書という行為を通して自分を問い直す──いくつになっても自分をアップデートしていける手段としての「読書」を掘り下げる企画です。三ヶ月に1回更新。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
○黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編 / お買いもの編
◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>書籍化決定!!】
スタジオジブリの小冊子『熱風』2024年3月号
『熱風』(毎月10日頃発売)にてスタートした「日本の「地の塩」をめぐる旅」が無事終了。Title店主・辻山が日本各地の本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方をインタビューした旅の記録が、5月末頃の予定で単行本化されます。発売までどうぞお楽しみに。
本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。