
JR目白駅から目白通りを日本女子大方面に歩き、坂道マニアに有名な小布施(こぶせ)坂を下ると、その下りきった先にI邸はある。I邸とはいっても家の一階にはちゃんと大家さんが住んでいて、Iはその二階を間借りしているだけ、つまりは賃借人な訳だが、仲間うちではみんなその家のことを「I邸」と呼んでいた。
わたしは昔、大学生のころ、一度だけこのI邸に閉じこめられたことがある。その時はI邸で、明け方まで数人で飲んでいた。夜が明け九時になり、十時になって、用事のある人は朦朧としたまま、それぞれ勝手に部屋を出ていった。部屋にはIとわたしが残っていたが、まだわたしが寝ていたその横で、ゼミがどうしたとかヤバいとかいいながら、Iは慌てた様子でそのまま服を着替え、何もいわずに出ていってしまった。
ガチャリという鍵を回す音が、扉の向こうから聞こえたと思う。それからしばらくしてわたしも、自分以外は誰もいなくなった部屋でゆっくりと起きたのだが、部屋の扉は開かず、窓の外には隣の家の壁が見えるだけで、完全に閉じこめられてしまったことがわかった。まだ誰も携帯電話なんか持っていない時代だったから、Iに連絡を取ることもできず、正直二日酔いも完全にどこかへ消え去ってしまった……。
彼がそう意識していたかどうかはわからないが、思えばその頃からIには、どこか調子はずれで、運の悪さを引きずりながら歩いているようなところがあった。
彼とわたしは同い年で、それぞれ留学や留年をしていたから、お互いほんとうだったらもう卒業している歳になっても、大学の溜まり場であるラウンジでまいにち時間をつぶし、くすぶっていた。
Iはジャーナリストになりたいといって、マスコミなど手当たり次第に履歴書を送っていたが、結果の方はどうも芳しくなさそうである。当時はわたしも近くに住んでいたから、夜、彼をI邸まで迎えに行き、よく二人で近所をランニングした。椿山荘、護国寺、鬼子母神……。走っているときはお互い無言だが、ゴールに決めていた公園で少し話をしたあと、それぞれの家までまた歩いて帰った。
Iは元来明るい性格で、会話のなかに唐突に横文字を混ぜながら、何か前向きなことを話すのが常だったが、その時期はかなりまいっているように見えた。いつだったか走り終わったあと、苦笑いを混ぜながらこのようにつぶやいたことがある。
「このままずっと、こうなのかな」
わたしはそうだとも、違うとも、何もいえなかった。その問いは口に出さないまでも、わたしもずっと思っていたことだったから。
いつまでもこのような時間が続くわけではない。I邸の床には、Iが近所の古本屋で買ってきた一冊何十円の文庫本が積み重ねられていたが、その溜め込まれたたくさんの本が、我々に残された最後のよすがのように見えた。
先日、Iが久しぶりに店に来た。彼が来るのは何年か前、嫌なことがあって会社を辞めたと聞いて以来だ。その時は開店時間の前だったので、店の外で立ち話をした。結局Iはジャーナリストにはならず、いまはコンサルタント会社に勤務している。
Iは最近わたしが出した新刊を読んでくれたようで、むかし我々がよく話題にした、ある翻訳家のことを思い出したと話した。
「辻山は、●●さんの本を読んだことがあるんだっけ?」
いや、読んだも何も、その人の本を薦めたのはあなたですよね。そのようにはいわなかったが、それを聞き、この人はわたしのことをよく知っているんだなと思った。彼女はわたしが文章を書くとき、いつも頭の片隅にいるひとりだから。
いくら部屋に閉じこめられたとしても、友人というものは得難いものだ。結局I邸に閉じこめられたときは、一時間ほど考えを巡らせたあと、床下に向かって大声を出し続けた。そうしたら一階でテレビを見ていた大家さんが異変に気づき、階段を上って扉を開けにきてくれた。扉が開いたときには、ほんとうに生きた心地がした。
今回のおすすめ本
同じ〈本〉を扱うとはいっても、新刊書店と古本屋では世界がまったく異なる。きれいごとだけではない彼らのタフさに圧倒された本。ただ傍らに立ち、言葉を引きだしてくる取材がほかにはない。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2022年5月14日(土)~ 2022年5月30日(月)Title2階ギャラリー
Essential
~『Essential わたしの#stayhome日記 2021-2022』刊行記念・今日マチ子作品展~
漫画家の今日マチ子さんが「#stayhome」の日常を描くシリーズの第2弾『Essential わたしの#stayhome日記 2021-2022』(rn press)を発売。コロナ禍の日常を描いた本作は、東京をはじめとしたさまざまな街を美しい色彩で切り取っています。作品展では本書から厳選した作品を展示いたします。会期中はオリジナルグッズも販売、作家の在廊も予定しています。要チェックです。
◯2022年6月2日(木)~ 2022年6月20日(月) Title2階ギャラリー
ポルトレ Portrait
『ポルトレ 普及版』刊行記念 上田義彦写真展
20世紀末から今世紀はじめにかけて、上田義彦が月1回のペースで撮影した38人の肖像を収めた『ポルトレ』が、この度田畑書店より普及版として刊行されます。Titleではそれにあわせて、安岡章太郎、大野一雄、白川静、大島渚、山田風太郎、三浦哲郎など、同書から作家や芸術家を中心に選んだポートレイト写真を展示します。
◯『すばる』で新連載が始まりました
連載タイトルは「読み終わることのない日々」。本の一節から自由に想起したエッセイです。『すばる』4月号(毎月6日発売)からスタート。どうぞお楽しみに。
◯【書評】
[NEW!!]北海道新聞 2022.04.03
『共有地をつくる』平川克美(ミシマ社)/生きやすい社会生む「接点」 評:辻山良雄
[NEW!!]「午後を贅沢にするおいしい紅茶と本」キリンビバレッジInstagram
「午後の紅茶に合う3冊」選:辻山良雄
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。