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僧侶、家出する。

2019.08.03 更新 ツイート

第7回

僧にできることはまだあるかい稲田ズイキ

京都のお寺の副住職で、コラムニスト・編集者としても活躍中の稲田ズイキさん。そんな僧侶が、なんと「家出する」と宣言。この連載は、「僧侶」に虚無を、「寺」に閉塞感をおぼえた27歳の若い僧侶が、お寺を飛び出し、他人の家をわたり歩き、人から助けられる生活の中で、一人の人間として修行していく様子をほぼリアルタイムに記録していくというものです。気になった人はどうか、稲田さんをお家に泊めてあげてください。

*   *   *

「愛にできることはまだあるかい」

 

映画『天気の子』でRADWIMPSがそう歌っていた。愛にできることはもうないかのような言い方で、慈悲至上主義(慈悲と書いてラブと読む)の自分は少々焦りながら、エンドロールを眺めていた。

 

予告の「あの夏の日、あの空の上で私たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ」というキーフレーズからもわかるように、この映画は、世界の変化とその責任を主題にしているように思えた。

質量保存の法則のように、何かを変えてしまったら、その分だけ失った何かが存在する。万引きをしたら自分は食いつなぐことができるかもしれないけど、ものを盗られ続ける人は生きていくことができないみたいに。『万引き家族』もそういうテーマの映画だったよね。

 

 

生きるということは、やっぱり難しい。

ただ一人心臓をドクドクさせることももちろん「生きる」だ。でも、誰も思うこともなく、ただ一人ひっそりと孤独に生きることには限界はあるし、何よりも寂しい。

ダライ・ラマは、幸せになるためには愛や思いやりが大事だとし、その理由を「私たちの愛そのものが、他の何よりも幸せを求めているから」と説明していた。むずい。つまりは、自分が幸せになるために「愛」があるのではなく、人間は根源的に「愛」がなくちゃいけないということらしい。

 

世はまさに大多様性時代。一人一人が明確な「世界」を持ち始めている。でも、そんな僕らがふとした時に感じる寂しさは、愛そのものが幸せを求めているサインなんじゃないだろうか。そうだよ、野田洋次郎。愛にできることはまだあるよ。っていうか、愛がなくちゃ! ウルフルズききなよ!

と一人ボツボツ思ってたら、歌の最後は「愛にできることはまだあるよ」で締められた。してやられた。そうだ。愛にできることはまだあるのよ。慈悲にできることも。僧にできることも。

 

京都アニメーションへ想いを馳せて

2019年7月18日。東京にて「現代における宗教の意義」なんていう超頭痛い対談を終えて、僕は京都の実家に向かっていた。先月亡くなったおじいちゃんの四十九日の法事に出席するためである。家出しているとはいえ、出たり入ったりあまりにも軽やかなこのスタンス。我ながらアッパレ。

 

そんな矢先、京都アニメーションの放火事件が起きた。

 

目を疑うしかなかった。嘘だ、嘘だと思ってTLを更新すればするほど、死亡者の数が続々と増えていく。今まで味わったことのない臨場感のある絶望に心が打ちひしがれた。

 

「○○監督は助かった」「○○さんは連絡が取れない」「犯人は誰だ」

 

Twitterのタイムラインが怒りと悲しみで騒然としていた。未だかつてあんなTLを見たことはない。

 

たった一つの悪意でたくさんの命が理不尽に奪われた。私、平成4年生まれ27歳。9.11はどこか遠い世界の話だと思っていた。この事件で初めて「テロ」というものの恐ろしさを認識した。

それは自分のヒーローが音を立てて命を落としていくという惨劇を目の当たりにしたからなのかもしれない。なぜならば、僕は京アニが大好きだったからだ。

 

高校生・大学生の頃、夢は脚本家になることだった。現実と妄想のギャップに苦しむ、うだつのあがらない童貞ボーイ。アニメはそんな自分を遠いキラキラとした世界へ誘ってくれた。そして、そんな美しい世界は、どんなに情けない自分でも、経験したすべての感情は創作につながるのだと教えてくれた。自分も誰かの心をアツくするような世界をつくりたい、その一心で脚本を自作し始めた。その一心で脚本を自作し始めた。

京アニは「京都アニメーション大賞」という脚本コンクールを主催していて、僕は夢中で作品を応募し続けていた。実家が京アニに近いこともあって、なんども「京アニショップ」を訪れては「うわぁ、ここで作ってんだなぁぁ」とクリエイションの空気に触れ、深呼吸だけして帰宅していた。

だから、京アニは憧れのヒーローに近かった。毎週、食い入るようにエンドロールのスタッフの名前を眺めていたのを覚えている。お経でいうと、数々の名僧侶の名前が並ぶこの感じだ。

 

“摩訶目犍連・摩訶伽葉・摩訶迦旃延・摩訶倶絺羅・離婆多・周利槃陀伽・難陀・阿難陀・羅睺羅・憍梵波提・賓頭廬頗羅堕・迦留陀夷・摩訶劫賓那・薄拘羅・阿楼駄”

 

余計わかりづらいか。もちろん、ことごとくコンクールは落選していた。もし万が一当選していたら、出家家出坊主もなかったかもしれない。

 

悲しくて悲しくてとてもやりきれなみ

実家の部屋に引きこもり、深い悲しみのどん底に暮れていたとき、クリエイターの友達が突然LINEを送ってきた。

「稲田 どうしよう」

「あかんわこれ、京アニ」

僕と同様、もう仕事も手が付かない状態になっているらしい。続けて、彼は僕にこう言った。

 

こういう時って何すればいいんだっけ

 

一瞬、時が止まったように感じた。ポンポンポンポンと木魚が頭の中で一定のリズムを刻む。1分ほどじーっとスマホを眺めて、結局僕は何も答えることができなかった。

 

同じくアニメファンの彼は藁にもすがる思いで、僧侶の僕にLINEしてきたに違いない。でも、この時の自分に精一杯で他人を考えるだけの余裕はない。「いっぱい悲しめばいいんだ」と言えばよかったのか。碇シンジ君のように「笑えばいいと思うよ」と言うべきだったのか。結局、僕が言えたのは「ダメだよね、俺もダメなんだよ」だった。

 

理不尽な死があまりにも悔しくて虚しくてやるせない。布団に寝転び、どれだけ「あ~~~!」と叫んでも無意味。自分がいかに無力であるかは何一つ響かない天井が教えてくれた。

 

「現代における宗教の意義の一つは、人生で起こる様々などうしようもなさを物語としてすでに語ってくれていることです」

 

今朝の対談で自分が話していたことが頭の中でリフレインした。宗教の持つどうしようもなさカウンターは今、見事に不発している。僧侶がもうすでにグロッキーだ。

 

止めようとしても止まらないこの涙も、その水源はすごくエゴに満ち溢れているんじゃないかとさえ思った。戦争、難民、飢餓。世界を見渡せば、今回の事件以上の人が日常的に命を失っているじゃないか。例えば、今回の事件の被害者が見知らぬ工場の従業員35名だったとしたら、僕は涙を流していただろうか。いや、無理。だとしたら、なんて自分勝手な涙なのだろうか。涙腺すら信じらんない。もう何もわからなくなった。

どれだけ枯れるほど泣いても、腹が減った。あんなに人の死に打ち震えていたのに、腫れた目をしながら、飯をばくばく食べられる自分が情けなく感じた。その晩はオナニーをして、久々に実家の布団で寝た。「あ~あ、何してんだろう、俺。」と自傷ぎみに思う自分すらキモい。目をつぶって、暗闇の中でぐ~るぐる色んなことを考えた。

 

僕には祈る言葉がある

次の日、僕は六地蔵の事件現場に向かっていた。僧衣をまとって、袈裟をつけて。

 

昨夜、布団の中で考えたことがあった。理不尽な死。人生の無常。そんなどうにもならない感情に対して、僕にはできることがあるということだ。

「南無阿弥陀仏」僕には祈る言葉がある。

おじいちゃんに死が近づいていたとき、目の当たりにした死は想像で感じていた死よりはるかに冷たかった。「死んだらどうなっちゃうの」と底知れない恐怖に包まれた。そんなとき、おじいちゃんが唱えていた言葉を口ずさめば自然と心は和らいだ。同じように、手も合わせれば、震えも止まった。

 

そうだ。どれだけ離れてても、たとえもうこの世にはいないとしても、僕には他者に「愛」を届けられる言葉がある。「あなたのことを思っています」と伝えられる手段があるのだ。そんな言葉が800年も前から時を経て、自分に伝わっていることのありがたさを知った。

 

それが祈りだ。それは返信の来ない手紙のように。明日転校してしまうあの子へのラブレターのように。ただ、あなたに想いを向ける。

 

第三者からは、ひどく自己満足で、もしかしたら迷信だとか、何の意味があるのだとか言われるかもしれない。それでも、自分が憧れたヒーローに「あなたがいてくれてよかった」の一言だけでも伝えたい。伝えないことには、もう立っていられないのだ。

事件の翌日だった。現場に赴き、祈った。涙が止まらなかった。もはや自分のために祈っているのか、他者のために祈っているのか分からない。でもそれが愛なんだといえば、ダライ・ラマに叱られるのだろうか。

 

煩悩まみれな僕はこの地球上のすべての存在を愛することなんて絶対にできない。それでも、自分が愛する人たちにだけはこのバイブスを通して愛を届けたい。そうすることでしか、僕は生きていけないから。その限りは、僧に、僕にできることはまだまだあると思う。

 

今、家出を始めて77日目。家出修行で触れる様々な経験が、日々細胞になっていくことを感じる。今日は大阪の知り合いの家へ向かう。

コインランドリーってなんだかすっごく落ち着く。

*   *   *

 

大好きなものを失った喪失感と、そこから生まれた僧侶としての矜持。どこまでもまっすぐに自分を見つめ続ける稲田さん。修行はこれからどのような道をたどるのでしょうか。もし稲田さんを泊めてあげてもいいと思った方は、稲田さんのTwitterにDMを送信してみてくださいね。お布施もなにとぞ、よろしくお願いいたします。

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僧侶、家出する。

若手僧侶がお寺や僧侶のあり方に疑問を持ち、「家出」した!

さまざまな人に出会うこと、それ自体が修行となると信じ、今日も彼は街をさまよう。

(アイコン写真撮影:オガワリナ)

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稲田ズイキ 僧侶

僧侶。1992年京都のお寺生まれで現・副住職(※家出中)。同志社大学を卒業、同大学院法学研究科を中退、その後デジタルエージェンシー企業インフォバーンに入社。2018年に独立し、仏教を楽しむコラム連載など文筆業のかたわら、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」、煩悩浄化トークイベント「煩悩ナイト」などリアルイベントを企画。フリースタイルな僧侶たちWeb編集長。

Twitter:@andymizuki

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