大阪在住、缶チューハイ片手にフラッと散歩が趣味のライター・スズキナオさんの最新エッセイ『このロボで、行けるところまで行くしかないのだ。』が発売になりました。歳を重ねるにつれ積もる、やるせない気持ちを綴った本書より、スズキさんの“寂しさ”を味わって下さい。
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中年だった父の写真を見ながら
正月、東京に帰った。お盆や正月はいつもそうなのだが、父の仕事場が宴会場となってそこにみんなで集まり、母が実家で作って持ってきた惣菜類をつまみながら、だらだらとお酒を飲んだ。
呉服の卸売り業をしている父は、現在76歳である。山形県の内陸部、山辺町まちの出身で、若い頃から東京に出て働いてみたいと思っていたという。高校を卒業して間もなく上京し、呉服業界に身を置くことになった。
20代の間は会社員として企業に属して仕事を学び、31歳の時に独立して自分の会社を持った。
とにかく仕事が生きがいという印象で、私や妹たちが幼い頃は、あまり家にいなかった印象がある。当時の私はそれを寂しいと感じていたのだろうか。今となっては記憶が圧縮され、週末になるとよく家族で出掛けていた近所の商店街のことだとか、家のホットプレートで野菜や肉を焼いて食べていた場面とか、何回か家族で行った旅行のことなどが楽しい時間として思い出されるばかり。“いなかったことを思い出す”というのは、そもそも難しいことなのかもしれない。
家にいる間さえ惜しむように、父は仕事関係の人々との付き合いに熱心だった。熱心というか、そうやって誰かと一緒に酒を飲んで話して親睦を深めていくことが根っから好きな人なのだろう。父の会社は社員が数名ほどの規模だから、着物を大量に仕入れてどこかへどかっと卸すというような仕事の方向性とは違い、取引先から求められる品をあちこちまわって調達してきたり、様々な作業工程を専門にする職人たちと連携を取りながら着物作りを進めたりというような、人と人との間を取り次ぐことが肝になる。
小さな規模の会社だからこそ、自分のことを覚えてもらい、気に入ってもらって、そこから長く関係が続いていくことが大事なのである。酒が好きで、酒を飲みながら人と他愛もない話をして笑い合うのが好きな父にとっては天職だろうと思う。私も酒が好きだし、友達と飲み歩くのも楽しいが、人見知りなので付き合いの範囲は限定的だし、とても父のように社交的には振る舞えないなと思う。
前述の通り、31歳の時に独立した父が、今の私の年齢である46歳になるまで、もう15年経っているわけだ。私の31歳の頃を思い返してみると、東京で会社員をしていたが、仕事に対する姿勢はとにかく受け身で、“仕事”とはつまり“気乗りしない課題がなぜか次から次に向こうから現れるので、できるだけサボりながらそれをとにかくやり過ごす行為”という感じだった。そんな社員にも給料を払ってくれていたわけで、今となれば会社にはありがたさと申し訳なさを感じるばかりだが、当時の私はそうだった。長男が生まれたのもその頃で、この仕事をいつまで続けていけるのか、先行きの見えないまま、そこに育児の慌ただしさも(もちろん楽しみも大きかったが)加わってきた時期だった。
その数年後に私は会社を辞めて大阪へ生活拠点を移すことになり、あれだけ面倒に感じていた“仕事”というものの意味がすっかり変わって、“したいと思っても見つからないもの”となって40代を迎えた。そしてもうその後半に差し掛かっている。父にとっての、独立して会社を持ってから40代後半にさしかかる15年ほどは、私の過ごした時間とは全然違っているのだろう。宴会の途中、酔いにまかせて「その頃ってどうだった?」と急な質問を投げかけてみる。
「どうっていうんでもないけど、まあ、忙しかったな」と返す父が31歳だったのは1980年代のはじめである。日本の経済が上向いて、後のバブル崩壊に向かっていくまでが父の30代から40代あたりに当たる。「あの頃は好景気で、お金が余ってたな。銀座でお客さんから60万円のボトルを御馳走になったよ。ウイスキーだかシャンパンだか、うまいんだかなんだったか」と笑う。
私は世代的にそんなイケイケの好景気とは無縁だ、と思っていたが、その景気のおかげで家庭も少しは潤っていたのかもしれない。「仕事はいくらでもあったの?」と聞くと、「あったね。何もしなくても売れたよ。ゴルフして酒飲んで、バブルの頃ってそういうのだったよ。その後がだんだん大変になったけどな」と言う。
空になった父のグラスに缶ビールの中身を注ぎながら「中年の頃はどんな風だった?」と聞く。「中年っていくつぐらいなんだ?」「40代から50代ぐらいかね」と、そんなやり取りの後にスマホで検索してみると、“厚生労働省の資料では壮年期を25~44歳、中年期を45~64歳と定義しており”という記載が目に入った。それを父に伝える。
「45ぐらいが一番脂ののった頃で、マグロで言えば中トロだ。体力もあったよ。まだ体の衰えはなかったよ」と父は言うが、私は近頃ガクンと体力が落ちたのを感じている。まあ、今の父の年齢から見れば、「あの頃はまだまだ元気だった」ということなのかもしれない。仕事と人づきあいに熱中していた父にとって、中年はやりがいに溢れ、力のみなぎるような一時期だったらしい。
「若い人と老年の間に自分がいるわけだよ。だからそのどっちともやり取りできるわけだよ。今思うとその時期に、どういう人と出会ってどういう仕事をしていたかっていうのがその後に大きいんだ。『あの人との出会いがあって今の自分があるな』っていう恩人みたいな人が、今までに何人かいる。俺だと30の頃から50ぐらいまでの間に7、8人、そういう大事な人がいた。そういう人が先輩として色々教えてくれるわけだよ。それが、自分が50を過ぎると、上にそういう人がいなくなって、逆に自分が頼られるようになって、頼る人がいなくなる」
そう聞けば、なるほどと思う。未だに誰かに頼ってばかりの自分は、頼れる年上の人たちのいない世界を今はまだ想像もできない。
父が仕事場の古びた棚から古い写真をごそっと取り出してホットカーペットの上に広げた。仕事で世話になってきた人たちとの思い出の写真ばかりだ。1枚ずつ手に取って「これはまだ30代かな。これは40になってるかな。ああ、これが今のお前ぐらいじゃないか?」と懐かしそうに眺めている。父の今の仕事場はビルの1階にあるのだが、その建物がビルになる前は、同じ場所に建てられた古い一軒家の2階部分が仕事場になっていた。
子どもの頃、私もそこで過ごすことがあったから、その2階が写った写真はすごく懐かしい。
楽しい場面を撮ったんだろうから当然かもしれないが、どの写真の中の父も仕事仲間たちも生き生きとしていて、こんな風に賑やかな中で働いていられたのは幸せなことだと思う。
今は亡くなっている人も、たくさん写っている。「まあ、いい時代だったね」と父がつぶやく。私が手に取った写真の中の若い父は黒々とした髪を横分けにして、白シャツにネクタイを締めて、タバコを吸っている。
「仕事の人たちの中では40代って若手だったよ。若い頃から商売を始めたから早く歳をとりたいと思ってた。30代は貫禄もないから、40代、50代に早くなりたいと思った。それが今、ここまで歳をとったらどうかっていうと……まあでも、結構若いって言われるんだよ。でも『歳のわりに頑張ってますね』って言われるのは腹が立つ。年相応になりたいね」
今の父の目標は81歳まで仕事を続け、自分の会社の50周年の記念に、お世話になってきた人たちと一緒に旅行に行くことだという。「そう思うと、長く続けてるよなぁ。そりゃあ歳もとるよな」と父が言うので、「でも矢沢永吉、紅白で歌ってたよ。同い年じゃないの?」と私は言う。大晦日の紅白歌合戦に矢沢永吉が出ていたのを見たのだ。
「ああ、あれはかっこよかったね」と父。「あれを見ながら、これがもし自分の父だったら不安で見てられないと思った」と言う私に、「いや、2、3曲ぐらいならしゃっきり歌える」と、根拠のよくわからない自信を見せた。
父の話を聞き、社会全体の景気とか、そういう大きな外部の要因もあるだろうけど、それとは別に、自分なりにやりがいのある仕事を持てている人にとって中年期は輝かしいものなのかもしれないと思った。
「時間が足りないと思っていた。有効に使わないと一日が短か過ぎて」と父。私が「逆だな。一日が長くて困るもん」とぼやくと、「なんだ、時間が余ってるのか」と笑う。一日が20時間ぐらいだとちょうどいいのにと私は思っている。
「その頃は忙しくて、家庭にも会社にもいる暇がなかったからね。とにかく外を飛び回って。家庭は犠牲にしたけど、俺は俺なりに頑張った。未だにお母さんには『どこにも連れて行ってもらってない』って言われるけど、盆と正月には山形に行ってたじゃないかって」と、それを少し離れた場所で聞いていた母から「それはただの里帰りでしょ」とつっこみが入る。
家庭をないがしろにしているといううしろめたさは、父の中にあったらしい。「だからその分、お前にゲームだのおもちゃだの買ってやったぞ。ドラゴンクエストだのゲームボーイだの」と言う通り、私が学校に行っている間、人気で入手困難なゲームを買うための長い列に並んでくれたこともあった。
「休みになったらお前を連れて公園に行ったんだよ。森下のちょっとした公園に滑り台とか、ちょっとした遊具があって、そこでお前が遊びたがるわけよ。でも俺は帰りたいわけ。『おい、そろそろ帰るぞー』って早めに切り上げて、今になってもうちょっと遊ばせてやればよかったなって思うよ」と言われて笑った。
今の私は、贅沢は望まないので、それなりの暮らしを続けていけるだけの収入を自分なりのペースで得ていければ、それが一番だと思っている。自分の仕事をどんどん大きく広げていきたいというような思いはなくて、だからその分、収入とは別の形で手ごたえを必要としているのかもしれない。
若かった自分とこれから老いていく自分の中間地点にいて、今だからこそできることや考えられることが、私にもきっとある。今の時期をどんな風にくぐり抜けたかが、60歳や70歳になった自分に影響していくのだろうか。そんなことをぼんやり思いながら、その日はそのまま遅くまで酒を飲み、父の仕事場で雑魚寝をした。雑な寝方をしたから翌朝は風邪気味だし、二日酔いだし……そんな調子で、中年を生きる私の新しい一年が、また静かに始まっていったのだった。
このロボで、行けるところまで行くしかないのだ。

なんと平凡な中年だろうか――。
缶チューハイ片手にふらっと散歩が趣味の、中年フリーライター。
歳を重ねるにつれ寂しさが積もる日々を綴る、書き下ろしエッセイ。
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