先日、建築家・社会学者・歴史学者の先生方を招いて都市空間・公共空間のシンポジウムを開催した。いかに都市空間を自分たち市民の要求に基づいて作り変えていくか、戦後日本でどのようにそうした活動が行われてきたか、というシンポジウムだが、建築家の家成俊勝さんのお話が面白かった。
人々が居場所を作っていくために、まずは建築を「つくる」ことを知ることが重要だ。その第一歩として「アーキジム」という試みを通じて、道具の使い方を伝える、という活動をされているのだという。
アーキジムの動画の中で、家成俊勝さんはこのように語る。「今の道具は、基本的に道具と用途が一対一対応」という。
確かに、私たちの道具は何を見ても「道具と用途が一対一対応」になっていると思う。データはクラウドで同期しているので一つだけでも別にいいはずだが、どこに行くにもiPadとiPhoneとMacBookを持ち歩く。目の上も横も下も、全部アイシャドウの細筆でいいはずだが、目の三角ゾーンを埋めるためのメイクブラシを別途必要とする。それによって初心者と熟練者の間は埋まったと言えるが、道具に自分が使われている気がするのはなぜだろう。
家成さんの話の続きはさらに面白かった。道具と用途が一対応だと何が悪いのか、というと「画一的なものができるから」だという。確かに一対一対応の道具は使いやすいし、初心者でも誰でも使えるが、一方で作られた完成品は、大企業が規格化して製作したようなツルッとしたものになる、というのだ。
目の横の三角ゾーンを埋める道具を使えば三角ゾーンを埋めるメイクが多く見られるようになるし、いわゆるアホ毛を抑える道具が流通すればみんな頭の上の毛を抑えるようになる。そうなればある程度画一的な顔、髪の毛をつくることは達成されるが、そればかりではいけないだろう、ということだろう。三角ゾーンを埋めない方が似合う顔の人もいれば、髪の毛をぺたんとさせないほうがキュートな人もいる。
私たちは自分たちのライフスタイルや体型、嗜好、要求に合わせて道具を使い、空間や自己を好きにデザインすることができるが、道具がそれを奪ってしまっているとも言える。大多数の人々が目指す顔や、「おしゃれ」と感じられるデザインは、ある意味で道具が形成しているとも言える。逆に言えば、道具を自由に使いこなせれば、より自分に合った顔をつくることもできるし、所与のデザイン以上に良いと思えるデザインを模索することもできるかもしれないのだ。
話が長くなったが、この原稿が掲載される頃は、飛騨高山で開催される「高山建築学校」という建築のサマースクールに参加している。このサマースクールは1970年代から毎年行われており、主に建築に携わる人々を対象とし、参加者全員が何か一つ作品を作るのをゴールとしている。
建築やアートに携わる人が多いとはいえ、来る人の世代も属性も職業も、出来上がる作品もさまざまなので、道具はインパクトドライバーから針と糸、ドローンまでさまざまだ。しかし、共通に使われている道具として「作業台」がある。製図をしたりスケッチをする際に、木のボードのようなものを使っている人が多かったのが印象的だった。
私自身は製図もスケッチもしないのだが、文章(調査の場合フィールドノートと言ったりする)はよく書く。そのとき、膝の上にMacBookを置いて机がわりにしていることが多く、これはこれで私の「作業台」なのではないか、と気づいた。
調査中に限らず、私は何をするにしても机とメモがないと落ち着かない。たとえば映画を見るときや、桟敷席でないところで歌舞伎を見る時も、MacBook Airを膝に置いて机がわりにし、音が鳴らない程度にメモをしていることは比較的多い。一時期刺繍にハマっていたときも、やはりMacBook Airの上でやっていた。
「道具」にはこだわりも宿る。私自身は研究や執筆にそれほど特別なソフトウェアを要するわけではなく、MacでもWindowsでもどちらでもいいので、ノートパソコンならなんでもいいだろうと思いながら購入していたが、それでもMacBookばかり購入している。凹凸がないところが作業台にふさわしいのかもしれない。ある意味で、私のMacBook Airはデータ分析や整理だけではなく、作業台としても使える。意外にも自分が考えていたほど「一対一対応」ではないのである。
高山建築学校でこのことに気づいた私は、せっかくなのでMacBook Airを作業台として何か作りたくなり、刺繍糸を使って織物を作った。MacBook Airに糸を貼り付けて、糸と糸の間をくぐらせることで織物を作成している。
PCで作業、というとモニターの中で行う分析や執筆くらいしか思い浮かばなかったのだが、こうして作業台としてのMacBook Airを経てみると、実は私たちは台さえあれば、手を使って色々なものをこの上で作れるのではないか、と考えさせられる。それが刺繍なのか彫刻(さすがにあぶないか……)はわからないが、もっともっと道具の側から作ることの可能性を考えてみたい。
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これはただの買い物じゃない

「買って応援」「買わずに拒否」の先にある、消費と社会の関係とは何か。気鋭の社会学者が自らの財布をはたいて「買い物」を解体する論考エッセイ。










