「買って応援」「買わずに拒否」の先にある消費と社会の関係とは何か――? 気鋭の社会学者であり、買い物好きで知られる富永京子さんが、自らの財布をはたいて「買い物」を解体する論考エッセイ連載、スタートです!
* * *
住んでいるのが都内の狭小住宅(しかも事務所も兼ねている)なので、場所を取るもの、たとえばアートを購入するのは服やジュエリーよりも勇気が要る。そのため、病気が全快したときや、論文を投稿し終えた時などに限定している。ただ、こればかりはどうしても欲しかったので、何の記念でも節目でもなかったのだが購入した。
倉俣史朗の作品は2021年にオープンした現代美術館であるM+(香港)で、東京・新橋に実在した同名の寿司店の内装をそっくり再現した「きよ友」と、バラの造花を封じ込めた椅子「ミス・ブランチ」とを初めて見た。最初見た時は僭越ながら「バブルっぽい」「こういうの、昔おばあちゃんの家で見たな」と感じてしまった。しかし、その時代ゆえの「軽さ」「冒険」が今となっては新鮮でもあり、素材の組み合わせ方、色の選び方に内在する現実味のなさに心奪われた。M+では「きよ友」の内装が完全に再現されているのだが、入った瞬間、「きよ友」が開店したという1980年代当時の新橋に想いを馳せてしまった。世はバブル、接待などの張り詰めた気持ちで訪れる人も多かっただろうが、ここに入る時、お客さんは現実を忘れて幸福だっただろうと感じさせられる空間だった。
その後、倉俣史朗展は2023年末に東京の世田谷美術館で、2024年夏に京都国立近代美術館で行われることになる。物販として、美術館展示ではお馴染みの図録や絵葉書のほかライトやフラワーベースが購入できるようになっていたのだが、花なんて贈り物以外でほとんど活けないのに、一輪挿しに心奪われた。
完全受注販売というハードルの高さと価格の高さにたじろいだが、その後数ヶ月、蛍光ピンクと透明のアクリルが生み出す非現実感が解けない謎のように頭に残った。迷った挙句、京都の巡回展で購入することに。といってもその時はちょうど飛騨高山へフィールドワークに行っていたので、知人に頼んで購入してもらったことを覚えている。知人曰く、美術館の物販で購入する人が滅多にいないとのことだったが……。やはり私と同じように皆たじろいだのだろうか。
注文から到着まで二ヶ月くらいかかったので、結果として自分への少し遅い誕生日プレゼントになった。
非現実感が重要な作品でもあるので、自分の住んでいる・仕事している雑多な空間に溶け込ませてもあまり効用がないんじゃないか、と思ったのだが、むしろこれが全く逆だった。
普段はスピーカー(スピーカーの上に生花だなんて音響愛好家からも生花を扱っている方からも怒られそうだが)の上に置いているが、すこし休みたい時は、写真のようにスネカルガールデン(snedkergaarden)のトリッセン・ボビンスツールの上に置いて眺めている。活ける花は、子どもの保育園のお迎えの際に一輪だけ選ぶことが多いが、むしろ一輪しか入らないということが花を慎重に見せているような気もして、そこも好き。
このような作品は、私たちが普段生活し、税金を払い、労働している日常とは無関係すぎて、現実味がないようにも感じるが、実は倉俣史朗の言説の中で私が一番好きなのは、野坂昭如の衆議院選出馬に運動員として協力した際の寄稿である。この出馬自体が、作品『四畳半襖の下張』がわいせつとされ、出版差し止めに抗議するための裁判の延長線上にある、表現の自由を求める運動の一環であった。
野坂昭如さんが衆議院選に出た時、運動員のひとりとして手伝ったことがありました。(中略)あの頃、『四畳半襖の下張』の裁判があって、ぼくは本質的に人間の感覚にまで国が線を引いてもらっては困ると思うし、もしぼくの作った椅子が猥褻だからといって線を引かれると、ものづくりにとってはたいへんしんどい。そんな部分でも非常に共鳴感をもちました。
また裁判所なんかで、裁判官がいちばん高いところから人を裁くのもおかしいと思うんです。ぼくは人間が本当に人間を裁けるかという疑問をもっていますが、ただ最低限それをやるとしたら、少なくとも裁判官は同じ平面上で話し合うべきだと思います。その意味で、裁判官の椅子が変わったら内容も変わるんじゃないか。つまりいまの国会の中のインテリアが変われば、政治にも何か変化を起こす可能性があるんじゃないか。赤いじゅうたんが違う色になっても変化が起きるんじゃないか、と思うんです。
(倉俣史朗, 1989「「無重力」にあこがれる」、『キャリアガイダンス』21(7)。『倉俣史朗のデザインーー記憶の中の小宇宙』図録に再収録)。
これは空間が政治的意思決定を規定するという点で、私の研究している社会運動(政治参加)としての空間形成、という研究とも通じる。町内会などのミーティングでも、椅子を円形に並べるか、全員前を向くかで、意思決定のあり方は変わってくるものだ。
自分のような職業の人間だと、仕事も生活も同じ場所ですることができてしまう。だから、いつまでも絶え間なく日常がだらだら続いてる感じになってしまうのだが、倉俣史朗のフラワーベースをふっと見ると、非日常というか、現実味のない浮遊感があって、思わず、ああ、と行き場のない声を漏らしてしまうくらい良い。買ってよかった。
これはただの買い物じゃないの記事をもっと読む
これはただの買い物じゃない

「買って応援」「買わずに拒否」の先にある、消費と社会の関係とは何か。気鋭の社会学者が自らの財布をはたいて「買い物」を解体する論考エッセイ。
- バックナンバー










