
動物と接点の少ない人生を送ってきた。飼ったことがあるのは熱帯魚、それから小さいエビ。名前をつけてもすぐに見失うネオンテトラの世話をしていたのは父で、ふりかけみたいに餌を水槽に振りかけた記憶しかない。てか、「振りかける」から「ふりかけ」って、名称設定すげーな。
友人の飼っている犬や猫と触れ合ったことは、人並みにある。すべてのペットの名前を「ココア」だと思い込んでしまう病にかかりながら、それでも懸命に「ココア……じゃなくて、えーと……うん、可愛い!」低い声で呟きながら恐る恐る手を伸ばしてきた。犬や猫は大抵「はいよ」って具合に私の指を舐めてくれる。その度に、何か少し、認められたような気分になって、口角が上がった。

犬も猫も好きだ。どっちが好き? と聞かれて即答できないくらい好き。でも実際に彼、彼女らと対峙すると、私の身体には緊張が走る。みんなみたいに「きゃわうぃいねぇ~~~」と言いながら、毛をもしゃもしゃすることができない。ここで声を大にして言いますが、定期的にバラエティ番組で話題に上がる「動物を可愛がっている女、可愛がってる自分を可愛いと思われたいだけだろ」的なツッコミをする気は毛頭ありません。この手の視点を「視点」とすることには、かなり前から辟易している。なぜ辟易しているか説明するのも面倒なほどに。そういうのマジもういいです、私は降りまーす。
「きゃわうぃいねぇ~~~」と言いたい。心の底から、その声を欲している。犬や猫と出会うたび「もしかして今ならできるのでは?」と、自分に期待するけれど、結局昨日もできなかった。昨日。私は犬と仕事をした。働く犬は、犬界で最も触れ合いやすく、こちらに歩み寄ってくれる犬だと私は認識している。なんせ働いているのだ。大人の人間でもしんどいと感じる撮影現場にやってきて、演出を受け、その通りに動いてみせる。こんなことできる犬、どう考えても接しやすい。人間に慣れているし、分別というものを理解させられているんだから。それに、私にはこの犬と親しくする必要がある。なぜならこの犬は、私の飼い犬役なのだから! さぁ、思う存分もふもふするのだ。高らかに可愛がるのだ。頭でどれだけイメージしても、身体から出るのは低音の「よろしく」。差し出す指先は堅く、これではプロデューサーと挨拶する時と変わらない。いや、プロデューサーには敬語だけど。あぁ、やっぱりできないのね。くすんとしている私のすぐそばで、スタッフさんや共演者はリラックスした空気で私の飼い犬役である犬に触れる。その距離感、私にこそ必要なのに、どうして持てないの?
動物が好きだ。なんて可愛いのって、心から思う。それなのに、その気持ちを表現できない。別に噛まれたことなんてないのに。怖い思いをしたことは一度もない。そもそもそんなに交わってない。
家に帰ってからも、なぜだろうと考え続けた。大好きなのに、どうして大好きを表現できないのだろう。犬の画像を検索する。マジでもうむちゃくちゃに可愛いと思う。抱きしめて一緒に眠りたい。明日はもっと触れてみよう。なんなら抱きしめちゃおう。決意して目を閉じたって、同じ明日が来るだけだった。惨敗である。

ハァハァ呼吸する犬を見つめる。口から垂れる長い舌。隙間から覗く尖った歯。呼吸に合わせて微かに躍動しているお腹は柔らかそうなのに力強くて、これって畏怖かもと思い至った。私絶対、犬より弱い。大柄なシベリアンハスキーはもちろん、小さく可愛いトイプードルにだって勝てっこない気がする。もし、どちらかが死ぬまで戦わないと出られない部屋に犬と閉じ込められたら、そこから出るのは私じゃなくてトイプードルな気がする。本能的にそれを感じる。だから私は、犬を可愛がれないのだ。それは「怖いから」ではなくて、もっと崇高な感情。私は犬を、そして猫を、尊敬している。裸でそこら辺に放たれても生きていける生命力が眩しくて、恐れ多いのです。私よりずっと逞しく気高いあなた方に対して「きゃわうぃいねぇ~~~」なんて、とてもじゃないけど言えないのです。だけど同時に、とても憧れているからこそ、親密になりたいとも思うのです。私は犬や猫に認められたい。「なかなか見どころがあるじゃん」と思われたい。できることなら床に寝そべって、腹天したいくらいなの。本当の意味でご主人に相応しいのは、人間の私より犬や猫の方だって、本能が決めてしまっている。強者に傅こうとするみっともない人間の習性が私を支配してしまうから、いつだって他の人間たちみたいに犬猫を愛でることができない。
と、ここまで書いてふと「傅く」を辞書で引いた。意味合ってるかなと不安になったから。するとそこには「尊敬する相手に仕えたり、年下の人を大切に育てたりする状況で用いられる」と書かれている。私が数行前に書いた「傅く」は「尊敬する相手に仕える」の意だけれど、同時に「年下の人を大切に育てたりする状況」なんて意も含むのか。犬や猫の大多数は、年下である。私より若い犬や猫を大切に育てること。それも「傅く」であるわけで、もしかしてそのスタンスならば私でも、犬や猫を愛でることができるかもしれない。少しだけ、今後の動物との距離感に希望が持てると同時に「私は動物に傅きたいわけ?」とも思い、我ながら引いた。
キリ番踏んだら私のターン

相手にとって都合よく「大人」にされたり「子供」にされたりする、平成生まれでビミョーなお年頃のリアルを描くエッセイ。「ゆとり世代扱いづらい」って思っている年上世代も、「おばさん何言ってんの?」って世代も、刮目して読んでくれ!
※「キリ番」とは「キリのいい番号」のこと。ホームページの訪問者数をカウントする数が「1000」や「2222」など、キリのいい数字になった人はなにかコメントをするなどリアクションをしなければならないことが多かった(ex.「キリ番踏み逃げ禁止」)。いにしえのインターネット儀式が2000年くらいにはあったのである。
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