
先日、『ウマと話すための7つのひみつ』という絵本が、児童書出版社の偕成社から静かに刊行された。著者は河田桟さん。河田さんは東京で仕事をしていたが、2009年、馬のカディと暮らすため、日本の最西端・与那国島に移住した。
河田さんは「カディブックス」という自主レーベルをつくり、それまでに三冊の著作を発表している(刊行順に『馬語手帖』『はしっこに、馬といる』『くらやみに、馬といる』)。在庫がなくなれば一度に数百部ずつ、そのつど新しい本を刷るといったやり方で版を重ね、『馬語手帖』の刷り部数は一万部を超えているという。わたしの店でも、開店した7年前からずっとカディブックスの本を取り扱っている。きっかけとなったのは店の準備期間中、全国津々浦々の書店を見て回っていたときのこと。それがどこの店だったのかどうしても思い出せないのだが、帰り際、ショーウィンドウに飾られていた『はしっこに、馬といる』と目が合い、もう一度レジまでとって返し、内容もよく確かめずに買い求めた。
読んでみてすぐ、この本はほかの本と違うなと思った。それは河田さんがほとんど自分のことを語らず、ひたすら「ウマ」という動物の感情について、そして本来は違う動物であるウマとヒトとがどのようにしてわかり合うのか、そのコミュニケーションについてのみを書いていることであった。文章を書いていると、そのどこかに〈わたし〉をしのばせたくなるものだが、河田さんの文章を書く姿勢はとてもストイックなもののように思え、柔らかな筆致の奥にある、彼女の芯の強さを感じた。
前述した『ウマと話すための7つのひみつ』の刊行記念展を行っていたある日のこと、二階から降りてきたお客さんが感に堪えないといった表情で、その感想をしみじみと漏らしていった。
「こんな生きかたもあるのですね」
ウマと一緒にいるためだけに日本のはしっこまで行き、静かにその暮らしをまもっている人がいる。河田さんによれば、それは自分がどうしてもそうしないではいられない、「さしせまった感覚」からのことだったという。それが他の誰かにどう映るかは別の話、河田さんは自分にとってそれなしではいられないことを、ただ淡々とやっているだけなのだろう。
「なかなかできないことですね……」
おそらくそのお客さん自身、そうした生活を望んでいるわけではないと思う。しかしその表情には、感嘆と少しのあこがれとが混じっていた。この世界のどこかに、その人にとってやらなければならないことを、無心でやっている人がいる……。そう思うだけで少し救われたようになる気持ちも、またあるのかもしれない。
わたしには河田さんのような生きかたはできないが、それでも稀に他の人から、何か言いたげな、気持ちのこもったまなざしを向けられるときがある。
「がんばってくださいね」
その人たちはみなそう言って去っていくのだが、わたしは以前、このがんばってという言葉に少なからず反発を覚えていた。「いや、自分はやろうとしたことを勝手にやっているだけだから……」。そうした言葉が、あやうく口をついて出そうになる。この時代に好き好んで小さな本屋を開き、まいにちそこに座っているなんて、よほどたよりなく、憐みの対象として映ったのだろうか。
しかしその反発も、自分の頑なさにすぎなかったのだろう。他人のことばをどう捉えるかは、その時の自分を映す鏡のようなものである。あのがんばってくださいという言葉、何かを含んだまなざしには、「わたしにはできないけど、あなたはどうかそれを続けてください」といった、何かを託す気持ちもあったのかもしれない。
ここでわたしはMさんのことを思い出す。Mさんはいま、ある地方都市で製本所を営んでいる。その街に行くまえ、彼女は確か店にも立ち寄ってくれたのだが、わたしにはMさんとその街の名前がうまく結びつかず、半ばぽかんとして彼女を見送ったように思う。
それから数年後のある日、彼女から突然、手紙と薄い冊子が送られてきた。手紙には、街角にあった空き家を片付けるところからはじまり「本をつくる場所」をつくったことが手短に書かれ、その一部始終を記録したのがその初版50部の冊子だった。ページに写っていた彼女はばっさりと髪が短くなっており、その生き生きとした姿は別人のように見えた。
「ああ、Mさんはこうしたことがやりたかったのだ」
段々と出来上がっていく場所、ゆっくりと書かれたであろう生まじめな文字を見ていると、はじめて彼女に対して何かを承知したような気持ちが生まれてきた。
世界のあちこちに、自分にとってどうしてもそうせずにはいられないことをやっている人がいる。それは誰かにそうしろと言われたわけではなく、ましてや周りの空気を気にしてのことでもない。そして、そうした無為の人たちがいることで、この世界は少しだけ豊かになるのである。
今回のおすすめ本
『小さき者たちの』松村圭一郎 ミシマ社
我々を知らないあいだに絡めとる、この大きなシステムからいかにして脱却できるのか。書かれたのは、水俣や天草の話、エチオピアの話だけでもない、いまを生きる人びとすべての話だった。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。