
先日、日本に上陸した台風14号は、「過去に類似がないほど危険な台風」(気象庁)という情報が事前より伝えられていた。910、930といったヘクトパスカルの数値は正直ピンとこなかったが、その日(東京に最接近する二日前の9月18日)降っていた雨の強さを見ると、とにかく備えておいたほうがよいレベルだということはすぐにわかった。それで、ギャラリーに在廊予定だった作家の安達茉莉子さんに、「今日は止めておきましょう」と伝えたあと、翌日の19日は18時までの短縮営業にした。
19日。風はかなり強くなったが、雨は前日ほど降っていない。ときおりうっすらと差す陽の光を見ると、判断するのが早かったかなと少し後悔したが、18時には予定通り店を閉め、普段外に出しているゴミ箱や脚立、観葉植物などを店の中に入れ、その日は早々に帰宅した。
天候による進退の判断について考えたとき、かつて毎週末のように行った登山のことを思い出す。山の天気というのは麓では晴れていても、山頂近くでは荒れていることも多い。尾根筋で急に暗くなったと思ったら嵐のような風が吹いてきて、近くの岩山にどぉんと雷が落ち肝を冷やしたこともこれまでにはあった。
そのような時、人知れず重圧を抱えているのが、隊を率いるパーティーのリーダーだ。頂上はすぐそこにある。しかし天候は急変しており、突き進むのは危険だ。山頂まで行きたいのは、リーダーを含めたそのパーティー全員の望みだろうが、そこで引き返す勇気があるかどうか。
「やっぱり、ここで止めよう」
大学のころ、登山道の途中でそうはっきり言った三年生の先輩は、その時少し苦笑いしていた。それはいま考えれば、決断という重圧から解き放たれた表情だったのかもしれない。しかしまだ山登りをはじめたばかりで、一つでも多くのピークを踏みたいと焦っていた当時のわたしにとって、そのあきらめを含んだMさんの笑いは、「優柔不断」としか映らなかった。
もう少し歩けば頂上まで行けるのにもったいない。
文句こそ言わなかったが、その時のわたしは渋々山を下りた。

三年生になった夏、今度はわたしもパーティーのリーダーとなり、北アルプスを縦走することになった。その年、一番難易度の高いコースに挑戦したわたしのチームには、体力に自信のあるメンバーが集まっていた。しかし縦走も終わりに近づいた三日目の夜、一年生で唯一参加していた、女性メンバーSの体調が急に悪くなった。テントを張っていた山小屋には、夏山シーズンだけ開いている診療所があったので、そこにすぐ彼女を連れていった。
「安静にしていれば落ち着くでしょう。今日はここで寝ていきなさい」
医師は心配ないという顔つきで話し、その夜Sは診療所のベッドに泊まることになった。しかし、明日は行程の最終目標である槍ヶ岳に登る日だ。この状態だと彼女が登ることは難しいだろうが、はたして残りのメンバーはどうすればよいのだろう。
テントに戻ったあとそこにいた全員で話し合い、翌日はわたしが山小屋に残り、他のメンバーはサブリーダーが率い、ここから槍ヶ岳まで日帰りで往復することにした。行動時間は予定よりかなり長くなるが、みな体力があるし、身軽にしていけば大丈夫だろう。
翌日の朝、山頂に登りに行ったメンバーを見送ったあと、診療所のベッドに寝ていたSの様子を見にいった。彼女はぐっすりと寝ていたが、昨夜往診してくれた医師は今日もいて、体調は随分よくなったと伝えてくれた。
「他の子はどうしたの?」
「ピストンで、槍ヶ岳を登りに行きました」
「それできみは一緒に行かなかったの?」
「うーん、何かあったら彼女の親にも連絡しなきゃいけないし……」
そう聞くと、その医師はしばらく黙って何か考えていたが、急に破顔し、大きな声で「えらい!」と笑った。
わたしがその場に残ったのは、こんな時、Mさんならそうするだろうと思ったからだ。「みなを無事に家まで帰すことが、リーダーのいちばんの責任なんだ」。いつだったか彼は、わたしにそう言ったと思う。お前もこの先リーダーになるだろうから、伝えておくとも……。
Sの体調は昼頃にはすっかりよくなったので、わたしと彼女はトランプでページワンをしながら、みなが帰ってくるのを待った。夕方、山の稜線を背景に、六人ほどの人影が降りてくる姿がようやく見えた。
いちど振り上げた拳をおろすのは、誰にとっても難しい。ましてや関わっている人間が多いほど、その困難は増える一方だろう。
災害が目に見えて多くなった近年、電車の計画運休、社員を早退させる会社も増えてきた。とてもよいことだと思う。結果的に何もなかったとしても、それは多くの備えがあったからで、その備えがなければ被害はもっと大きいものだっただろうから。
たとえ一度決めたことでも、その方がよいと思うのであれば、あとに引き返すことだってできる。そう知っているだけでも、随分と気が楽になるのではないか。
「やると決めたからやる」。偉くなればなるほど、人は頑なにそう思ってしまうようだ。しかしそこにはいつても引き返す道だってあることを、わたしは忘れないようにしたい。
今回のおすすめ本

『臆病者の自転車生活』安達茉莉子 亜紀書房
自転車のジの字も知らなかったひとりの女性が、ふとしたきっかけからそれに目覚め、電動アシスト、ロードバイクと、まだ見ぬ遠くへこぎ出していく物語。たとえ小さなことでもそれを自分の力で乗り越えることで、その人は真の意味で自由になれる。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年11月28日(金)~ 2025年12月22日(月) Title2階ギャラリー
劇画家・バロン吉元が1971~72年に発表した代表作『昭和柔俠伝』(リイド社刊)の復刊を記念し、同作の原画のみを一堂に集めた初の原画展を開催します。物語の核となる名場面を厳選展示。バロン吉元はいかに時代を切り取り、そこに生きる人々の温度を紙にこめてきたのか……。印刷では伝わりきらない、いまだ筆致に息づく力を通して、原稿用紙の上で世界が立ち上がる軌跡を、原画で体感いただける機会となります。
◯2025年12月25日(木)~ 2026年1月8日(木) Title2階ギャラリー
毎年恒例の古本市が、今年もTitleに帰ってきました! Titleの2階に、中央線からは遠いお店からこの辺りではお馴染みの店まで、6店舗の古本屋さんが選りすぐりの本を持ち寄って、小さな古本市を開催します。10回目の今年は、新しい店も参加します! 掘り出しものが見つかると古本市、ぜひお立ち寄りください。
【『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります】
本屋Titleは2026年1月10日で10周年を迎えます。同日よりその10年の記録をまとめたアニバーサリーブック『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります。
各年ごとのエッセイに、展示やイベント、店で起こった出来事を詳細にまとめた年表、10年分の「毎日のほん」から1000冊を収録した保存版。
Titleゆかりの方々による寄稿や作品、店主夫妻へのインタビューも。Titleのみでの販売となります。ぜひこの機会に店までお越しください。
■書誌情報
『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』
Title=編 / 発行・発売 株式会社タイトル企画
256頁 /A5変形判ソフトカバー/ 2026年1月10日発売 / 800部限定 1,980円(税込)
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】
心に熾火をともし続ける|〈わたし〉になるための読書(7)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
あらゆる環境が激しく、しかもよくない方向に変化しているように感じる世界の中で、本、そして文学の力を感じさせる2冊を、今回はご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。















