まさかの母娘問題
7月3日、村上春樹の新作長編小説『夏帆』(新潮社)が刊行された。
高校生のときから読み続けている村上春樹作品。前作『街とその不確かな壁』が出たときは予定していた有休がとれず、「もう会社辞めようか」とまで考えていたことを思い出す。今回ももちろん(?)休みはとれなかったけれど、週末はハルキワールドに耽溺した。
今回の主人公は、26歳の女性・夏帆。村上春樹が長編小説で女性を主人公にするのは初めてのことだ。短編小説であれば、ある日急に眠れなくなった女性が主人公である『眠り』がある。(ちなみに、私が一番好きな村上春樹の短編小説がこれ)どんな新境地を見せてくれるのか期待半分、冒頭の一編を2年前に聞いた身(※)からすると不安半分という感じだった。
※2024年3月に早稲田大学で開催された「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」で行われた本人による朗読。
不安の原因は、朗読会で聞いた冒頭シーン。
「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」――『夏帆』より
絵本作家である夏帆は、ブラインドデートした相手に突然容姿に関する中傷を受ける。それがまた、シチュエーションも女性・男性の造形もいかにも村上春樹的なタッチで描写されており、30代でジェンダー観が大きくアップデートされた私にとっては、正直かなり聞き苦しい内容だった。もしかして彼も、無邪気に老害ムーブする老作家になっていってしまうのかしら……なんて感じてしまったのだ。
ドキドキしながら読み始めたものの、第三章に入る頃には不安はほとんど吹き飛んでいた。というか、新しい「井戸に降りる(村上春樹は創作活動のことをよくこう例える)」アプローチにいやおうもなくひきこまれ、ポリティカルコレクトネスのことはすっかり頭から追い出されたというべきか。
まさかまさか、村上春樹が新作のテーマに選んだのが「母と娘」問題だったとは。
折しも、読書会の課題図書としてアガサ・クリスティの『春にして君を離れ』、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み終えたタイミング。両作品とも、10代・20代で読んだときには男女間のドラマ(前者は夫婦関係、後者は恋愛関係)を描いたメロドラマと認識していたのに、読み直して印象が一新したことに驚いたところだった。
どちらも、主題にあるのは「母娘問題」。さらに、「男の存在は、女には、少なくとも女の“心”には、たいして影響を及ぼさない」というメッセージが隠されているように思う。
『春にして君を離れ』の主人公・ジョーンは、弁護士事務所を構える夫を支え、三人の子供たちを立派に育て上げたと自負するイギリスの主婦。結婚してバグダッドに行った末娘バーバラに会いに一人旅に出たジョーンが、偶然再会した女学生時代の旧友からの一言をきっかけに、過去と現在を振り返る中で恐ろしい真実に気づき始める。
『風と共に去りぬ』は南北戦争時代を生き抜いた大農園の娘、スカーレットを主人公とするベストセラー小説。初恋の人・アシュリ、運命の人・レット・バトラーとの愛憎劇を描くドラマチックな物語で、ヴィヴィアン・リー主演の実写映画も大ヒットした。
『春にして君を離れ』は、最終章の直前までジョーンの視点で物語が進行する。しかしエピローグで急に夫ロドニー視点に切り替わり、読者を慄然とさせるラストに導かれるのだ。暴かれるのは、傍目には完璧な夫婦と思われている二人の致命的なすれ違い。『風と共に去りぬ』も一見「スカーレットは、アシュリとレット・バトラーのどちらと結ばれるのか?」が主軸に思えるが、実は、母・エレンへの憧れと決別、恋敵・メラニーとのシスターフッドの二つが、スカーレットの人生をより強く支えるものとして浮かび上がってくる。
女を本当に変えられるのは、いつだって女だ。女の運命を変えるのは、男ではなく女なのかもしれない。
ブラインドデートの男に暴言を投げつけられてから、夏帆の穏やかで規則的な生活は少しずつ変わり始める。そしてある日、久しぶりに帰った実家で、母の異変に気づく。
しかし父親にはなぜかその変化は感じ取れないようだった。夏帆の見たところ、自分の妻の中身が別の誰かとすり替わっていることに、どうやらまったく気づいていないらしい。ずいぶんおかしなことだと、夏帆は首をひねらないわけにはいかなかった。――『夏帆』より
夏帆は昔から母より父に親近感を抱き、心を通わせて育ってきた。美しいがプライドが高く社会的ステータスにこだわるタイプの母と、地味だが穏やかで地に足ついた父。大人になるにつれ、夏帆と母の間には薄紙がはさまるような行儀のよい一線が引かれ、派手に対立するわけでもなくほどよい距離感が保たれてきた。
しかし、夏帆が自分自身を見つけようとするとき、つまり「井戸」に降りていこうとするとき、立ちはだかったのは母の身を借りたモンスターだった。最終章、夏帆は確かに母だった何かに、刃物をもって一人立ち向かうことになる。
この「娘による母殺し」の物語は、女性が人生をブレイクスルーしようとするときの通過儀礼のようなものなのだろうか。『春にして君を離れ』でバーバラが達成したように、『風と共に去りぬ』でスカーレットが選びようもなく母を失ったときのように。そして娘が母を殺そうとするとき、そこに男は介在しない。男たちの役回りはいつも、曲がり角で足をひっかけたり、疲れた女に水を与えたり……、大事なように見えて実は、ただの狂言回しに過ぎないのだ。
夏帆の父も、夏帆と母の対決にまったく関与せず、なんなら気づきもしない。信じていた世界が崩れることに怯え、見て見ぬふりできればそれが一番と思っている、それが女の物語における男という存在だ。そしてこれは、現代女性のリアルにおいても例外ではないのではないだろうか……。
既婚会社員39歳、人生の迷路は日々姿を変えていく。
父の娘を自称し、男社会を切った張ったで生きているつもりでいたが、内なる悪魔は不思議といつも母の顔をして出現する。22歳で家を出たときに済ませたつもりの「母殺し」、実はまだ終わっていなかったのかもしれない。
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