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本屋の時間

2026.07.15 公開 ポスト

第190回

世界がぜんたい幸福にならないうちは……辻山良雄

昔からスポーツが大の苦手。小学生のとき、人数が足りずゴールキーパーとして入ったサッカーの試合では、簡単なボールをお手玉して前半だけで5点を失い、そのまま交代させられた。

 

だから普段サッカーの試合を追いかけることはないのだが、どういうわけかワールドカップだけは好きだ。今回も多くのゲームを見ているが、ラウンド16のパラグアイ対フランス戦は、世界の現実を想起させずにはおかない、複雑な試合だった。

それはまず後味の悪い、ダーティーな試合だったと言えるだろう。パラグアイの選手はずっとフランスの選手のユニフォームを掴み、体に抱きつき、審判の見ていないところでは小突いたり足を踏んだり、危険な行為をくり返した。スター選手に対してそれは顕著で、エースであるキリアン・エムバペには、常時二~三人の選手をつけてもみくちゃにした。だからフランスが1-0で勝利したとき、わたしは心から安堵した。そうでなければ正義の出番なんてない。

エムバペは相当フラストレーションが溜まっていたのだろう。試合が終了したとき喜びを爆発させ、一人で何事か叫んでいた(想像するに、とてもここでは書けないような言葉だったのではないか)。そのときパラグアイのゴールキーパー、オルランド・ヒルがエムバペに近づき、彼に何か話しかけようとした。しかしエムバペはヒルを無視して喜び続け、ヒルはがっかりして、エムバペの背中に力なくボールをぶつけた……。

 

ヒルはただ互いの健闘を称え合いたかったのだと思う。しかしその思いは受け止められることなく、ボールはころころ、グラウンドの上を転がった。ゲームのあいだエムバペがされたことを考えれば、それは仕方がないと言えるが、南米選手の置かれた状況を鑑みると、ことはそう簡単には割り切れない。

パラグアイにはスラム街で生まれた、経済的に恵まれない選手も多く、ヒルも四年前、自分のサッカー用具を売り払って、息子の医療費の足しにした。それに比べるとフランスの選手たちの年棒は軒並み数十億と高額で、ラグジュアリーブランドに身を包んだファッションアイコンとなっている選手も多い。パラグアイのラフなプレースタイルも、VARというテクノロジーに多くを負った現代サッカーでは、ある種のなつかしさ(=人間らしさ)さえ感じさせるものだった。

サッカーの世界に限らず、経済的に十倍以上もの差がある人同士では、「彼らは交わることのない別の世界を生きている」と考えたほうが現実的だ。越えることのできない格差の壁を見せつけられ、パラグアイの選手たちは何を思ったのだろうか。

もちろんそのことで危険なプレイが擁護されてはならないし、フランスの選手たちにも彼らの正義や見えない努力があるだろう。だから二つの世界はただすれ違うだけ。そこに同じ人間としての感情の交流を見出すのは、いまの段階では難しい。

 

わたしは、最近よく口にしている「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉を反芻した。

残念ながら、この話にオチはない。

今回のおすすめ本

茨木のり子全日記I』茨木のり子 katsura books

生誕100年の今年、まだ読まれたことのないテキストがこんなにもあったのかと、心底驚きよろこんだ。多くのファンを持つ「現代詩の長女」の日記。その出版は事件である。

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

 

◯2026年7月16日(木)〜 2026年7月27日(月) 本屋Title2階ギャラリー

北林みなみ『ぼくのもり』刊行記念原画展

講談社から刊行された絵本『ぼくのもり』の刊行を記念して、原画展を開催致します。国内外で注目を集めるアーティスト・北林みなみさんが美しい色彩で描き出す、独りの中に広がる豊かな世界に、ぜひ出会って下さい。

 

◯【お知らせ】NEW!!

〈わたし〉たちは何を食べているのか|〈わたし〉になるための読書(10)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄

さまざまな食べ物を享受しながら、その背景にいるものや人たちについて考えることの少ない現代人。今回は、命やくらしをつないでいくことの重要性を痛感させてくれる2冊をご紹介します。

 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。

偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

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辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

幻冬舎plusでできること

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