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本屋の時間

2026.04.15 公開 ポスト

第187回

春、高尾山へ辻山良雄

水曜の朝八時。荻窪駅からJR中央線を、新宿方面ではなく立川・八王子方面へと向かう。家の間隔が次第に広がっていく車窓の風景を眺めながら、わたしは「高尾山には登ったことあるよね?」と、ずっとぐるぐる考えていた。

わたしは登山サークルの幹事長だったから、都心からアクセスの容易な高尾山には恐らく登っているはずだ。しかし当時は「低山なんて」と思っていたのだろう、その山の記憶だけがぽっかりと抜け落ちている。

さて、電車は高尾駅に着いた。そこから京王線に乗り換え、京王線のホームの上から高尾の街を見渡しても、胸に去来する思いは何もない。高尾山口駅に到着しても、駅舎がモダンに改装されすぎて、はじめて降りる駅としか思えなかった(木のファザードを見てそう思ったが、あとから調べるとやはり隈研吾のデザインだった)。

 

まあ、いいか。

頬をなでる風はもう山の麓のやわらかさだし、我々はすでにここまで来てしまっているのだ。

チェックのシャツにリュックサックという格好をした観光客に混じって、彼らが進む方向へ上っていく。道の両側には昔ながらの蕎麦屋やまんじゅう屋に加え、イタリアンやクラフトビールを出す店も立ち並んで、まるで祭の縁日に来たみたいだ。

楽しいね。

アヤコさんが言った。

確かに家を出てまだ一時間も経っていないのに、もう気分はすでに観光モードになっている。高尾山に行こうと言ったのは彼女のほうだったが、思い切ってここまで来てよかった。

ロープウェイとリフトが共通になっているチケット売り場まで来ると、西洋人の青年二人連れや中国系のカップルなど、外国人の姿が目立つ。そう言えば外国人旅行者は、日本の文化や自然に惹かれて旅をしていると聞いたことがあった。

ロープウェイが出て行ってしまったばかりなので、我々はリフトで行くことにした。リフトはゆっくりと、崖を這うようにして上っていく。体を外にさらしてリフトに座っているあいだ、わたしは隣にいたアヤコさんに向かって「いまここで、急に仕事の電話が入ってきたビジネスマンは大変だな」と笑った。

山の中腹の空気は、冷んやりとしていた。眼下には八王子市内が、そしてその向こうには都庁を中心とした新宿のビル群が見える。ふだんならこの時間は、目の前に広がる関東平野のどこかで朝ごはんを食べている頃だが、同じ時間この場所では、毎日こうした晴れ晴れとした景色が広がっているのだろう。

山腹から山頂に登るルートはいくつかあるが、山に来るのも久しぶりなので、初心者向けの舗装された1号路を行くことにした。

歩きはじめるとすぐスギ林に入る。高尾山は中世より飯縄大権現を勧請した修験道の山でもあるので、道中は関東一円の「講」からの奉納板で溢れ、いたるところに天狗の像がある。薬王院に着くとちょうど祈祷がはじまったようで、平地で見るよりも荒々しく見えるお坊さんが十名ほど、法螺貝を吹きながら山伏スタイルで我々の前を通り過ぎた。

薬王院を過ぎると道は尾根筋に入り、木漏れ日も一段と明るいものに変わった。最後の坂道を上るともう頂上だ。歩きはじめて一時間、少し物足りなく感じたが、山歩きのリハビリにはこのくらいがちょうどいいのかもしれない。

高尾山の山頂は、そこだけがぽっかりと開けた場所で、近くに陣馬山や丹沢山塊、遠くにはぼんやりと富士山が見えた。みな山頂の縁に座って、おべんとうやおにぎり、お菓子などを広げて、思い思いにくつろいでいる。その内どこかから、ラーメンのスープの匂いがプンと漂ってきた。やっぱりこの感じ、何か憶えているなあ。

サークルでは毎年四月に新入生歓迎のハイキングに行っていたから、高尾山に登った年もあったのだろう。山頂では上級生たちが、持ってきた鍋やコンロでラーメンをふるまった。ほどよく動いた体には、温かいインスタントラーメンのスープが染み渡って、そんな時には家で食べるラーメンの何倍も美味しく感じたのだった。

今日は特に何も用意して来なかったので、ポットに入れてきた紅茶を飲んで、もう少し山道らしい道を通りすぐに下山した。麓でとろろ蕎麦をいただき、温泉に入ってもまだ午後の二時。申し分のない休日である。

 

今回のおすすめ本

『世界の果ての本屋さん』ルース・ショー 清水由貴子=訳

この世界を勇敢に、タフに生き抜いた女性がたどり着いたのは、世界の果てにある小さな本屋だった。人生よりほかに、興味深い物語はない――そのように思わせてくれる一冊。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

◯2026年4月10日(金)~ 2026年4月26日(日) 本屋Title2階ギャラリー

花守り
中野真典展

本屋Titleでは6年ぶりとなる中野真典さんの展示を開催します。たくさんの花の絵が、会場を埋め尽くします。約80枚の絵のほか、「家守り」という小さな木の家や、マッチ箱ほどの大きさの「お守り」も並びます。作家のあたらしい世界をご覧ください。

 

◯2026年4月28日(火)~  2026年5月12日(火) 本屋Title2階ギャラリー

絵本『こくとう ぴょ~』出版記念原画展
高橋久美子さんの農作業を描いた、加藤休ミさんの絵

絵本『こくとう ぴょ~』(高橋久美子・作 加藤休ミ・絵 あかね書房刊)の出版を記念し、原画展を開催いたします。加藤休ミさんの迫力ある原画をご覧ください。また本書のお話を担当された、高橋久美子さんの畑と作業風景の写真やエッセイも併せて展示。土から生まれたサトウキビが、黒糖になるまでを追体験してもらえたらと思います。

*会期中の5月10日(日)、高橋久美子さんをお招きしての、お話&黒糖食べ比べ会「お砂糖ができるまで」を行います。詳しくはこちらをご覧ください。

 

◯【お知らせ】NEW!!

旅のことば|〈わたし〉になるための読書(9)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄

今回は、記憶のポケットに残る、たよりなくも美しい「旅のことば」をたどってゆきます。素敵な2冊をご紹介。

 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。

偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

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辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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