
絵本作家の山脇百合子さんが亡くなった。ほんとうにありがとうございましたという気持ちだ。わたしにとって、山脇さんの絵は原風景。子どものための本そのものであり、いま手元にある本を眺めても、この絵で育ったんだなぁといった、しみじみとした感慨が湧いてくる。大人になり、たくさんの素晴らしい絵本作家の存在を知っても、はじめて見た風景は変わることがない。訃報を聞き、同じ気持ちを抱いた方も多かったのではないか。
山脇さんは、お話を担当した姉・中川李枝子さんとのコンビで、数多くの絵本、童話を世に出した。その中でも、絵本『ぐりとぐら』のシリーズはいちばんの代表作といえるのだろうが、わたしにとって山脇百合子といえば、『いやいやえん』『たんたのたんけん』といった童話の挿し絵を描いたひとだった。その絵は、何度も何度も物語を読み聞かせてくれた母の声と分かち難くあり、体の奥深くに染みこんでいる。
山脇さんの描く子どもはみなほっぺたが赤く、口角でその繊細な表情がつけられる。アトリエで有名な画家が描いたというよりは、平日の午後、家庭のテーブルでひとり母親が描いたような、親しさと温もりがあった。
その線は素朴でありながらも、誠実でまじめ。わたしは自分のことを、結局は道を踏み外すことのない、面白味のない人物だと思っていやになることがあるのだが、この度あらためてこの絵を見て観念した。このまじめな絵が根っこにあるのであれば、それはもうそうなるしかないではないか。子どものころに読んだもの、見た風景というのは、知らず知らずのうちにその人のそれからを決めてしまうのだろう。
子ども時代から遠く離れた大学三年の冬、わたしはある衝動にかられ、自分のために『いやいやえん』を買った(手元にある本の奥付は1995年2月10日第81刷となっている)。なぜ大人になってまで、子どもが読むその童話を買おうと思ったのかはわからない。しかしいま考えてみればそれは、自分がどこから来てどこへ行くのか振り返りたかったゆえの、わたしにとって切実な行動だったのかもしれない。
当時、同級生たちはみな卒業の年を控え、それぞれ就職先を探しはじめたというのに、わたしといえばひとり留年が決まり、その時付き合っていたひとともあまりうまくいっていなかった。目に見える空はずっと灰色。何かにすがりつく思いで衝動的に買ってしまった『いやいやえん』だったが、結局その時は少し読んだだけで、そのまま本棚に戻してしまったと思う。
しかしその本を買ったことで、「大人が自分のために子どもの本を買ってもよいのだ」と、本に対して少し自由になれたのはよかった。その頃はプレゼントでもないのに、絵本や童話を持って書店のレジに行くなんて、あまり考えたことがなかったのだ。
小説や評論だけが本ではなく、絵本や童話だって大人が読む立派な本である。
広く本を扱っているいまでは、「何をあたりまえのことを」と一笑に付すようなことでも、その既成概念をはじめて取り払う時は、少しだけ勇気を必要としたのだ。
実際絵本ほど、本というものの魅力を体現しているジャンルはほかにない。すぐに読みきれる長さで、その人が大切だと思うことを描ききっていること。両手で広げられる大きな紙面で、絵と言葉がわかりやすく胸に飛び込んでくるところ……。その専門店が多いのも納得がいく。
いま、店の広さに関して残念に思うことはほとんどないのだが、児童書の棚が1本(その脇に無理やり据え付けた児童文学の棚がもう1本)しかないことはずっと気にかかっている。叶うことなら本の数を、この倍、いや3倍くらいまでには増やしたい。店には遠方から来てくれるお客さんもいるが、絵本は主に近所の方が日常的に買ってくれることが多く、店とこの地域とをつなぐ、大きなかすがいだと思っている。
今回のおすすめ本
『あんまりすてきだったから』くどうれいん・作 みやざきひろかず・絵 ほるぷ出版
「すき!」や「すてき!」と感じた気持ちを素直に表現してみること。それはいつか思わぬかたちで、あなたのもとへと帰ってくるだろう。自由すぎるオノマトペが運んでいく、あかるい幸福感につつまれた絵本。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
○2023年11月17日(金)- 2023年12月4日(月)Title2階ギャラリー
鏡花生誕150年を記念して、この夏国書刊行会より出版された『絵本龍潭譚(りゅうたんだん)』の元となった伝説の「繪草子龍潭譚」の原画と初版本、下絵など貴重な資料を展示します。また中川学の手がけた鏡花絵本と、デジタルプリントの版画やイラストカアドなど、関連グッズも展示販売いたします。
○黒鳥社の本屋探訪シリーズ <第7回>
柴崎友香さんと荻窪の本屋Titleへ
おしゃべり編 / お買いもの編
◯【書評】
書店「Title」店主が語る「読めば、力が湧いてくる」牧野富太郎のエッセイ集
『牧野富太郎と、山』(ヤマケイ文庫)/評:辻山良雄
YAMAKEI ONLINE
◯【対談】
辻山良雄 × 大平一枝 「それがないと自分が育たない、と思う時間」
(大平一枝の『日々は言葉にできないことばかり』vol.6/北欧、暮らしの道具店)
◯【お知らせ】
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。4月16日(日)から待望のスタート。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
◯【店主・辻山による<日本の「地の塩」を巡る旅>好評連載中!!】
スタジオジブリの小冊子『熱風』2023年11月号
『熱風』(毎月10日頃発売)にてスタートした「日本の「地の塩」をめぐる旅」が好評連載中。(連載は不定期。大体毎月、たまにひと月あいだが空きます)。Title店主・辻山が日本各地の本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方をインタビューする旅の記録。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。