
先日、東京の街には数年ぶりに雪が積もった。わたしは瀬戸内海の端っこにある神戸で生まれ育ったから、子どものころから雪にはなじみがない。しかし、もし女の子として生まれてきたなら、父はわたしに「雪」という名前を付けたがっていたと幾度か母から聞かされたことがあったので、雪の存在にはどこかなつかしさも感じてきた。
父が、そんな北国生まれの子どもに付けるような名前を思いついたのは、子どもの生まれてくる季節が冬だったことに加え、彼の雪国に対する淡い憧憬があったからのように思う。
わたしの父は、神戸以外の土地で暮らしたことのない〈ぼんぼん〉だった。彼は真珠の卸売の仕事をしていたが、真珠の珠をネックレスやブローチに加工し、小売店に卸す以外にも、年に数回ほど地方都市にある地場の百貨店に赴き、自ら作った製品の行商を行っていた。
お父さんどこに行ったのとでも尋ねたのだろう。高崎や宇都宮といった地名も、そうした母との会話から覚えた名前だったが、中でも年に一度は出張していた「十日町」という地名には、子ども心にもある特別な響きがあって、郷愁に似た心情を掻き立てられた。
「雪が二階の窓まで積もっとるんや」
めったに仕事の話をしない父がうれしそうに話した北国の街は、温暖な神戸から見るととても地続きにある街とは思えず、聞くだけでも気が遠くなった。
後年、大学で知り合った友人がその十日町の出身だったので、冬休みを利用して彼の実家に遊びに出かけた。十日町は東京から行くと案外近く、確かに実在する街だった。在来線を乗り継ぎ、川端康成の『雪国』でおなじみ、国境の長いトンネルを抜けるとそこはほんとうに一面の雪景色で、どこまでも白が続く景色の明るさに息をのんだ。
友人の家は「豪商」という言葉が似合う重厚な造りで、昼間はスキーをして温泉に立ち寄り、夜は家族の人みんなと鍋を囲んで、当主である友人の父自ら地元の日本酒をふるまってくれた。
「この家は底冷えするから、暖かくして寝たほうがいいね」
見れば部屋の片隅には、毛布が山のように積み重ねられている。酒好きだった父がほだされたのは、案外雪国の人がもつ、こうした細やかな心づかいだったのかもしれない。
雪がしんしんと降り、あたりの物音がボリュームを絞ったように静まりかえる光景を見れば、人は誰でも童心にかえるのだろう。この度の雪でも、店の中でたまたま居合わせた出版社に勤めるSさんが、「ここから見ると、雪がまるで映画のワンシーンのようですね」と、窓の外に降る雪を普段は見せない素朴な表情で眺めていた。
しかし雪が降り積もる光景をずっと見ているうち、はたしてこの雪はいつ止むのか、最初はしゃいでいた気持ちは急にしぼみはじめ、現実がだんだんと背筋を冷たくする。「シャイニング」や「ファーゴ」といった映画の影響か、雪にはどうも人の平常心を狂わせる力があるように思えてならない。その中に閉じ込められた時のことを想像するだけでとても普通ではいられなくなり、途端に胸が苦しくなる。
今回の東京の雪は、都心では一部路面が凍りついている箇所があったが、翌日にはあらかた溶けてしまった。こわごわ歩いて出勤する途中、この交差点危ないなと思った場所で前から走ってきたバイクが盛大に転び、その一部始終がスローモーションで起こった出来事のように、目のまえをゆっくりと流れていった——
わたしはどうやら「雪」としての人生は歩めないのだろう。そのことを考えれば、残念でならない。
今回のおすすめ本

本はみんなで読むと、さらに楽しくなる。最近増えてきた「読書会」に関し、参加のしかた、開きかた、考えられることを詳細に書いたガイドブック。新たな世界が開かれる。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年11月28日(金)~ 2025年12月22日(月) Title2階ギャラリー
劇画家・バロン吉元が1971~72年に発表した代表作『昭和柔俠伝』(リイド社刊)の復刊を記念し、同作の原画のみを一堂に集めた初の原画展を開催します。物語の核となる名場面を厳選展示。バロン吉元はいかに時代を切り取り、そこに生きる人々の温度を紙にこめてきたのか……。印刷では伝わりきらない、いまだ筆致に息づく力を通して、原稿用紙の上で世界が立ち上がる軌跡を、原画で体感いただける機会となります。
◯2025年12月25日(木)~ 2026年1月8日(木) Title2階ギャラリー
毎年恒例の古本市が、今年もTitleに帰ってきました! Titleの2階に、中央線からは遠いお店からこの辺りではお馴染みの店まで、6店舗の古本屋さんが選りすぐりの本を持ち寄って、小さな古本市を開催します。10回目の今年は、新しい店も参加します! 掘り出しものが見つかると古本市、ぜひお立ち寄りください。
【『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります】
本屋Titleは2026年1月10日で10周年を迎えます。同日よりその10年の記録をまとめたアニバーサリーブック『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります。
各年ごとのエッセイに、展示やイベント、店で起こった出来事を詳細にまとめた年表、10年分の「毎日のほん」から1000冊を収録した保存版。
Titleゆかりの方々による寄稿や作品、店主夫妻へのインタビューも。Titleのみでの販売となります。ぜひこの機会に店までお越しください。
■書誌情報
『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』
Title=編 / 発行・発売 株式会社タイトル企画
256頁 /A5変形判ソフトカバー/ 2026年1月10日発売 / 800部限定 1,980円(税込)
◯【寄稿】
店は残っていた 辻山良雄
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)
◯【お知らせ】
心に熾火をともし続ける|〈わたし〉になるための読書(7)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
あらゆる環境が激しく、しかもよくない方向に変化しているように感じる世界の中で、本、そして文学の力を感じさせる2冊を、今回はご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。















