1. Home
  2. 生き方
  3. 本屋の時間
  4. 胸には記念碑を

本屋の時間

2021.08.15 公開 ポスト

第116回

胸には記念碑を辻山良雄

オリンピックが終わると、夏が急に自らの役割を思い出したように暑さが戻ってきて、ここ数年は毎年そうだが、今年も全国各地で大雨による被害が報じられている。わたしの神戸にある実家は、阪神・淡路大震災の翌年、山から少し下った坂の途中にある、いまの場所に引っ越してきた。見上げると山肌の土は崖からこぼれ落ちそうになっており、家の近くには川が何本も急な斜面をかけ下りているから、西日本に豪雨があったときなど、いまは誰も住んでいない家のことが気になって仕方がない。

 

神戸で起こった水害についていえば、昭和十三年の阪神大水害がよく知られていて、谷崎潤一郎の『細雪』にも、その日の出来事を詳細に記した箇所がある。数年前、谷崎の旧邸である「倚松庵(いしょうあん)」から、近くを流れる住吉川、芦屋川あたりを歩いてみたが、川が決壊し大岩が流れ着いた幾つかの場所には、そのことを示す石碑が建てられていた。

それは「忘れてはならない出来事」として、その地に刻まれた記憶なのだろう。それほど人は何でもすぐに忘れてしまうものなのだ。わたしにしたって、過去についてしまった様々な嘘、思わず誰かを傷つけてしまったことなど、その時はそれを考えるだけで胸がいっぱいになった痛みでも、いまでは遠くかすかに疼く程度になってしまった。それに気がついた時などは、自分がさも軽薄なもののように思えて、心底嫌になる。

喉元過ぎれば熱さを忘れる。それが日本特有の〈うつろう〉ことさと、うそぶくことだってできるかもしれない。苦しさや矛盾の中でずっと生きるのは辛いから、時間が過ぎることは時に救いでもある。しかしその時感じた痛みや苦々しさを覚えていなければ、わたしはいつまでも変わることなく、同じ過ちを繰り返してしまうだけだろう。

時が流れていることは、確実に人の気持ちを押し流してしまうようだ。店にくるお客さんを見ていると、日ごとにオリンピック前の、何でもない日常に戻っていくような気にさせられる。

「この本を取り寄せることはできますか」

「暑くて死にそうなので、とりあえずかき氷から……」

そうした毎日繰り返されるささいなやり取りにも、一、二週間まえには存在したある重苦しさはなくなり、平時の響きが聞こえてくる。ほんとうに急に変わってしまったのだ。

それにしても、〈うつろう〉のがあまりにも早過ぎではないか。その切り替えの早さは、この度の五輪が、人々が一時消費するためのコンテンツにとどまり、記憶に深く刻まれる出来事にはならなかったことを示しているのかもしれない(それは運営が同じであれば、たとえコロナ禍のオリンピックではなかったとしても、変わることはなかったと思う)。

しかしそんなあっけなかったオリンピックにも、いま思い出しても胸がすくような、心に種が植え付けられたこともあった。スケートボードやスポーツクライミングなど、新しい競技の選手たちには、「国を背負って」という悲愴感がない。それぞれが個人として人種も国籍も関係なくただ競技に向かう姿は、どこまでも清々しくてあかるかった。

記念碑は、心動かされた忘れたくないことにだって建てられるべきだ。今回目にした多くの古きものは改め、あかるい方へと歩いていかなければならないだろう。

 

今回のおすすめ本

『動物たちの家』奥山淳志 みすず書房

彼らはその黒々とした瞳の奥に、どのような感情を宿しているのか。動物と一緒に暮らした日々を振り返り、そのよろこび、逡巡を率直に語った、読めば忘れがたくなる本。

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

 

◯2025年11月28日(金)~  2025年12月22日(月) Title2階ギャラリー

『新装版 昭和柔俠伝』刊行記念 バロン吉元原画展

 劇画家・バロン吉元が1971~72年に発表した代表作『昭和柔俠伝』(リイド社刊)の復刊を記念し、同作の原画のみを一堂に集めた初の原画展を開催します。物語の核となる名場面を厳選展示。バロン吉元はいかに時代を切り取り、そこに生きる人々の温度を紙にこめてきたのか……。印刷では伝わりきらない、いまだ筆致に息づく力を通して、原稿用紙の上で世界が立ち上がる軌跡を、原画で体感いただける機会となります。


◯2025年12月25日(木)~  2026年1月8日(木) Title2階ギャラリー

Title2Fの古本市 vol.10

毎年恒例の古本市が、今年もTitleに帰ってきました! Titleの2階に、中央線からは遠いお店からこの辺りではお馴染みの店まで、6店舗の古本屋さんが選りすぐりの本を持ち寄って、小さな古本市を開催します。10回目の今年は、新しい店も参加します! 掘り出しものが見つかると古本市、ぜひお立ち寄りください。
 

【『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります】

本屋Titleは2026年1月10日で10周年を迎えます。同日よりその10年の記録をまとめたアニバーサリーブック『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』が発売になります。

各年ごとのエッセイに、展示やイベント、店で起こった出来事を詳細にまとめた年表、10年分の「毎日のほん」から1000冊を収録した保存版。

Titleゆかりの方々による寄稿や作品、店主夫妻へのインタビューも。Titleのみでの販売となります。ぜひこの機会に店までお越しください。
 

書誌情報

『本屋Title 10th Anniversary Book 転がる本屋に苔は生えない』

Title=編 / 発行・発売 株式会社タイトル企画
256頁 /A5変形判ソフトカバー/ 2026年1月10日発売 / 800部限定 1,980円(税込)

 

◯【寄稿】

店は残っていた 辻山良雄 
webちくま「本は本屋にある リレーエッセイ」(2025年6月6日更新)

 

◯【お知らせ】

心に熾火をともし続ける|〈わたし〉になるための読書(7)
「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄

あらゆる環境が激しく、しかもよくない方向に変化しているように感じる世界の中で、本、そして文学の力を感じさせる2冊を、今回はご紹介します。

 

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。

偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

{ この記事をシェアする }

本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP