
オリンピックが終わると、夏が急に自らの役割を思い出したように暑さが戻ってきて、ここ数年は毎年そうだが、今年も全国各地で大雨による被害が報じられている。わたしの神戸にある実家は、阪神・淡路大震災の翌年、山から少し下った坂の途中にある、いまの場所に引っ越してきた。見上げると山肌の土は崖からこぼれ落ちそうになっており、家の近くには川が何本も急な斜面をかけ下りているから、西日本に豪雨があったときなど、いまは誰も住んでいない家のことが気になって仕方がない。
神戸で起こった水害についていえば、昭和十三年の阪神大水害がよく知られていて、谷崎潤一郎の『細雪』にも、その日の出来事を詳細に記した箇所がある。数年前、谷崎の旧邸である「倚松庵(いしょうあん)」から、近くを流れる住吉川、芦屋川あたりを歩いてみたが、川が決壊し大岩が流れ着いた幾つかの場所には、そのことを示す石碑が建てられていた。
それは「忘れてはならない出来事」として、その地に刻まれた記憶なのだろう。それほど人は何でもすぐに忘れてしまうものなのだ。わたしにしたって、過去についてしまった様々な嘘、思わず誰かを傷つけてしまったことなど、その時はそれを考えるだけで胸がいっぱいになった痛みでも、いまでは遠くかすかに疼く程度になってしまった。それに気がついた時などは、自分がさも軽薄なもののように思えて、心底嫌になる。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。それが日本特有の〈うつろう〉ことさと、うそぶくことだってできるかもしれない。苦しさや矛盾の中でずっと生きるのは辛いから、時間が過ぎることは時に救いでもある。しかしその時感じた痛みや苦々しさを覚えていなければ、わたしはいつまでも変わることなく、同じ過ちを繰り返してしまうだけだろう。
時が流れていることは、確実に人の気持ちを押し流してしまうようだ。店にくるお客さんを見ていると、日ごとにオリンピック前の、何でもない日常に戻っていくような気にさせられる。
「この本を取り寄せることはできますか」
「暑くて死にそうなので、とりあえずかき氷から……」
そうした毎日繰り返されるささいなやり取りにも、一、二週間まえには存在したある重苦しさはなくなり、平時の響きが聞こえてくる。ほんとうに急に変わってしまったのだ。
それにしても、〈うつろう〉のがあまりにも早過ぎではないか。その切り替えの早さは、この度の五輪が、人々が一時消費するためのコンテンツにとどまり、記憶に深く刻まれる出来事にはならなかったことを示しているのかもしれない(それは運営が同じであれば、たとえコロナ禍のオリンピックではなかったとしても、変わることはなかったと思う)。
しかしそんなあっけなかったオリンピックにも、いま思い出しても胸がすくような、心に種が植え付けられたこともあった。スケートボードやスポーツクライミングなど、新しい競技の選手たちには、「国を背負って」という悲愴感がない。それぞれが個人として人種も国籍も関係なくただ競技に向かう姿は、どこまでも清々しくてあかるかった。
記念碑は、心動かされた忘れたくないことにだって建てられるべきだ。今回目にした多くの古きものは改め、あかるい方へと歩いていかなければならないだろう。
今回のおすすめ本
彼らはその黒々とした瞳の奥に、どのような感情を宿しているのか。動物と一緒に暮らした日々を振り返り、そのよろこび、逡巡を率直に語った、読めば忘れがたくなる本。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。