
(写真:齋藤陽道)
二〇一九年の秋から冬にかけ、店のカフェで数回にわたり打ち合わせをしていた中年の男女がいた。女性は近所に住んでいるのかいつも先に来ており、連絡が入ると店の入口まで、彼女が「先生」と呼んでいた男性を迎えにいく。「先生」は地味な服装で薄いサングラスをかけており、気の強そうな女性の連れには見えなかった。
女性はその翌年、お酒も飲める小料理屋を新宿に出すようで、もう契約も済ませているという。そうしたあれこれを、コンサルタントなのか税理士なのか、とにかく「先生」に相談しているのであった。特に聞き耳を立てていたわけではないが、女性の声が大きいので話が筒抜けであり、それを伝えると「すみません」と一旦はおさまるのだが、しばらくして話が盛り上がってくると、だんだんとまた声のボリュームが上がってくる。
いつもは二人だけの打ち合わせであったが、女性は一度中学生くらいの娘を連れてきて、二人が話しているあいだずっと、彼女は狭い店内を退屈そうにぶらぶらとしていた。先生を見送ったあと女性はわたしを見て何か思い出したのか、「そういえば、あなたほしい本があるっていってなかった?」と唐突に娘に聞いた。ずっと黙っていた彼女も驚いたのか、その時は「別に……」と何も答えなかった。
おそらく近くで話せるところがほかになかったのだろう。それ以来店内でその女性の姿を見かけることはなく、年が明けて世のなかの状況もコロナ一色に変わったから、彼女の店がどうなったのか、話の続きが無性に気になるときがある。彼女とは気が合いそうにはなかったが、結局店は開いたのか、「先生」にはいくら払ったのか、その巡り合わせを思えば気の毒というより他はない。
こうした感染症の最中でも、新しいことをはじめる人は必ずいる。人生の波や機会は、社会の状況とは関係なくその人にやってくるからだ。「何もこんなときに」と部外者の人なら思うかもしれないけど、決して待ってくれないのは、その人の「はじめたい」という思いである。それは一度逃すとどこかに消えてしまい、もう同じ姿では現れてこない。
ある若い女性から、故郷に帰って本屋をはじめようか悩んでいるのですと、マスク越しに打ち明けられた。閉店前だったのであまり長くは聞けなかったが、彼女にはどこかの店でバイトでもして、経験を積んでからでも遅くないと伝えた(まだ漠然と考えているという感じだったから)。
何はともあれ、いまは止めるべきだったのかもしれない。街を歩けば、「テナント募集」の貼り紙も目立つ。ではもっといい状況ならうまくいくのかといえば、それは誰にもわからない。先が見えなくても自分のお金と人生をそこに賭けることが、店を出すということの本質なのだ。
その人の人生の盛りは、二度とはやってこない。彼女にやめておけとは、わたしにはどうしても言えなかった。
先日、若い二人連れの男性が来店した。そのうちの一人(おとなしそうな人)が、どうやら古本屋をはじめたいようで、連れの男性が彼に向って品揃えや利益といったことを、何か早口でまくしたてていた。話しかけてくるかなと思ったがそれはなく、評論家然とした男は話したいだけ話すと、店を出てしまったが、おとなしそうな男性のほうが、割と高額な本を買って帰った。
今回のおすすめ本
仕方なく置いている物、なんとなく食べている食事はないか。自分の身の回りを、納得できる物で一つずつ揃えることにより、そこにあった澱は流されていく。進行形のリトルプレス、現在は三巻まで発売中。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2022年5月14日(土)~ 2022年5月30日(月)Title2階ギャラリー
Essential
~『Essential わたしの#stayhome日記 2021-2022』刊行記念・今日マチ子作品展~
漫画家の今日マチ子さんが「#stayhome」の日常を描くシリーズの第2弾『Essential わたしの#stayhome日記 2021-2022』(rn press)を発売。コロナ禍の日常を描いた本作は、東京をはじめとしたさまざまな街を美しい色彩で切り取っています。作品展では本書から厳選した作品を展示いたします。会期中はオリジナルグッズも販売、作家の在廊も予定しています。要チェックです。
◯2022年6月2日(木)~ 2022年6月20日(月) Title2階ギャラリー
ポルトレ Portrait
『ポルトレ 普及版』刊行記念 上田義彦写真展
20世紀末から今世紀はじめにかけて、上田義彦が月1回のペースで撮影した38人の肖像を収めた『ポルトレ』が、この度田畑書店より普及版として刊行されます。Titleではそれにあわせて、安岡章太郎、大野一雄、白川静、大島渚、山田風太郎、三浦哲郎など、同書から作家や芸術家を中心に選んだポートレイト写真を展示します。
◯『すばる』で新連載が始まりました
連載タイトルは「読み終わることのない日々」。本の一節から自由に想起したエッセイです。『すばる』4月号(毎月6日発売)からスタート。どうぞお楽しみに。
◯【書評】
[NEW!!]北海道新聞 2022.04.03
『共有地をつくる』平川克美(ミシマ社)/生きやすい社会生む「接点」 評:辻山良雄
[NEW!!]「午後を贅沢にするおいしい紅茶と本」キリンビバレッジInstagram
「午後の紅茶に合う3冊」選:辻山良雄
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。