
店を続けているあいだには、一瞬すれ違っただけなのだが鮮やかな印象を残す人もいて、先日急逝した女優のLさんは、わたしにとってそんな方だった。
最初にその姿を見かけたのは、店の前の青梅街道か、それとも隣のセブンイレブンだっただろうか。当時彼女はセブンイレブンでよく煙草を買っていた。目の前の客が誰かもよくわかっていない、若い店員を相手に買いものをすませると、まだ無料であったビニール袋を片手に、一点を見つめ悠々と歩いて出ていく姿をたまに見かけた。
「今日、Lさんいらっしゃったよ」
彼女を見かけたときには、妻もわたしもなんとなく、お互い報告するようになっていたのだが、ある日のこと、気がついたら目のまえに当の女性が立っていたので驚いた。その時も手にはセブンのビニール袋をぶら下げ、だらりとしたTシャツに足元はサンダル。外にいるだけで心底うんざりする、蒸し暑い日のことだったと思う。
「クマちゃんの本ある?」
そのしわがれた声をした女性は尋ねた。
「え? 熊の本ですか」
「違うわよ。ほら、篠原勝之さんの何といったかしら、賞を取った……」
ああ、クマさんのことか。その本のタイトルは検索してすぐにわかったが、店にはなかったので注文して取り寄せることになった。
こちらに名前と電話番号を書いてください。
そのように言って専用の用紙を渡すと、彼女は震える字で名前を書いた。やっぱりそうだったのだ。しょっちゅうこの前は通っているから電話はしなくてもよいと電話番号は書かなかった。
そのあとLさんは帰っていこうとしたが、途中にあった文庫の棚の前で足を止め、講談社文芸文庫の新刊から一冊本を取ってまた戻ってきた。「この人、わたしの友だちなの」
見ると古井由吉の新刊である。これ、買います。Lさんは特に中身も値段も確認することなく、その本を買って帰った。とてもすてきな光景だった。
それから一カ月くらい経って、彼女はクマさんの本を取りにきたと思うのだが、そのときのことはあまり覚えていない。
店にいるあいだのLさんは、まわりからは少しだけ浮いていて、わたしは自由であるという空気を身にまとっていた。彼女はまわりの何事にもあまり関心がないように見えたが、そこには何より、一人の人間としての尊厳があった。それは好き勝手に生きている人を見るとすぐに足を引っ張ろうとする、いまの風潮とはまったく態度を異にするものである。
姿を見かけないなと心配していた矢先の訃報であった。一瞬でもすれ違うことができて、ほんとうによかった。
今回のおすすめ本
こんな洋館はいやだ。闇の中、いろんなおどろおどろしいものからかまわれてしまう、郵便局員の受難。スタイリッシュですこしおかしな、あたらしいホラー絵本。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年4月25日(金)~ 2025年5月13日(火)Title2階ギャラリー
「定有堂書店」という物語
奈良敏行『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』刊行記念
これはかつて実在した書店の姿を、Titleの2階によみがえらせる企画です。
「定有堂書店」は、奈良敏行さんが鳥取ではじめた、43年続いた町の本屋です。店の棚には奈良さんが一冊ずつ選書した本が、短く添えられたことばとともに並び、そこはさながら本の森。わざと「遅れた」雑誌や本が平積みされ、天井からは絵や短冊がぶら下がる独特な景観でした。何十年も前から「ミニコミ」をつくり、のちには「読む会」と呼ばれた読書会も頻繁に行うなど、いま「独立書店」と呼ばれる新たなスタイルの書店の源流ともいえる店でした。
本展では、「定有堂書店」のベストセラーからTitleがセレクトした本を、奈良敏行さんのことばとともに並べます。在りし日の店の姿を伝える写真や絵、実際に定有堂に架けられていた額など、かつての書店の息吹を伝えるものも展示。定有堂書店でつくられていたミニコミ『音信不通』も、お手に取ってご覧いただけます。
◯2025年4月29日(火) 19時スタート Title1階特設スペース
本を売る、本を読む
〈「定有堂書店」という物語〉開催記念トークイベント
展示〈「定有堂書店」という物語〉開催中の4月29日夜、『本屋のパンセ』『町の本屋という物語』(奈良敏行著、作品社刊)を編集した三砂慶明さんをお招きしたトークイベントを行います。
三砂さんは奈良さんに伴走し、定有堂書店43年の歴史を二冊の本に編みましたが、そこに記された奈良さんの言葉は、いま本屋を営む人たちが読んでも含蓄に富む、汲み尽くせないものです。
イベント当日は奈良さんの言葉を手掛かりに、いま本屋を営むこと、本を読むことについて、三砂さんとTitle店主の辻山が語り合います。ぜひご参加下さいませ。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。