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新宿・歌舞伎町

2021.05.01 更新 ツイート

歌舞伎町は本当に不要不急の街ですか? 手塚マキ

(Photo by Dil on Unsplash)

一年以上続くコロナ禍。三度目の緊急事態宣言も、酒場や興行など、いわゆる「不要不急」とされる場所が自粛の対象です。しかし、いったい「不要不急」とはなんなのでしょうか? 23年間生きる元カリスマホストの名物経営者が新宿の知られざる姿を描いた、『新宿・歌舞伎町 人はなぜ<夜の街>を求めるのか』を読めば、不要不急ゆえの懐の深さが多くの人を救ってきたことがわかります。たとえば、歌舞伎町の歴史がまさにそうです。

歌舞伎町で一番古い観光地

歌舞伎町は変わらない部分と変わらざるを得なかった部分がある。自らが招いた結果であることがほとんどだが、そのたびに必ず復興しているのが歌舞伎町の逞しさだ。

歌舞伎町を案内する際に、必ず行く場所がある。歌舞伎町弁財天だ。そしてそこにある石柱を紹介する。「尾張屋寄贈大正十二年」と書いてある。歌舞伎町で一番古いものだろう。

歌舞伎町は元々、森と沼だった。そこを尾張屋銀行の峯島喜代が1893(明治26)年に買い取って埋め立てた土地だ。埋め立てるときに大量の蛇が出たらしい。その蛇を供養するために上野寛永寺から弁財天を呼びよせて祠(ほこら)を作った。

それは今でも歌舞伎町公園として残っている。年に一度、弁財天様の祠を開くときがあり、歌舞伎町商店街振興組合の方々を中心に集まる。そして新宿十二社熊野神社の例大祭の際には、歌舞伎町睦の屯所もここになる。歌舞伎町の氏神様のような存在だ。

以前は振興組合の土地だった。半分を歌舞伎町公園として新宿区に渡した。今も、公園の隣のビルは振興組合の所有だ。ビルの2階部分が公園側から見て祠になっている。そこに弁財天様は収まっている。我々は公園に集まって隣のビルに向かって拝むのであるが、そのビルの1階と地下には老舗ファッションヘルスの「新宿11チャンネル」が入っている。

宮司が来て大幣(おおぬさ)を振ってもらって、我々は「新宿11チャンネル」に向かって頭を下げて祈るのである。

ワクワクを大事にしてきた街

戦後、7代目峯島茂兵衛からのちに歌舞伎町になる地域の町内会長だった鈴木喜兵衛を中心とした復興協力会に、歌舞伎町の大部分の土地が提供され住民に再分配された。その後、復興協力会は行政と協力して都市計画を作り、民間中心で街を再生させようとした。

しかし、そんな綺麗事だけで歌舞伎町が歩んできた訳ではないことは周知の事実だ。戦後の混乱の中、アナーキー状態の焼け野原にエネルギーを注入したのは暴力団だ。終戦後すぐに新宿駅東口で「光は新宿より」の横断幕を掲げた尾津喜之助の関東尾津組が作った闇市が人々の生活を支えた。

物が何もなくなってしまったそのとき、大事なのはスピード感だった。尾津喜之助はインフォーマルではあるがたしかに市場を作ったのだ。行政の施策を待っている余裕は人々にはなかった。

尾津豊子『光は新宿より』によれば、関東尾津組は、戦争中も無料診療所を作ったり、炊き出しをしたりして、疎開することなく新宿にずっと留まっていた。だからこそ、即座にマーケット開設を実行に移せたらしい。さらに同書によれば、当時の都知事、所轄の警察署長、警視庁などとも面談し、承諾を得た闇市だったという。

のちに尾津が自由党からの公認で衆議院選挙に立候補したことを鑑みると、行政が治安維持を含めた小売りの管理を尾津に託した、という面があったのではないかと思う。新宿だけでなくあらゆるところで戦後は闇市が開かれて、人々の生活を支えた。新宿では関東尾津組をはじめいくつかの組が新宿駅周辺にマーケットを開いて、たくさんの人が集まった。

しかし、それは長くは続かない。世の中の状況が落ち着いてきて元々の駅周辺一等地の地権者たちが土地の所有権を主張することで、闇市関係者は撤退を余儀なくされた。マーケットを開いていた組たちは、そこで商売をしていた多くの人の行き先を歌舞伎町に用意し、人々は歌舞伎町に流れていった。歌舞伎町はこのときは未開の地だったのだ。

人が集まればさらに人が集まる。鈴木喜兵衛はワクワクする街にしようと、T字路を意図的に増やした。突き当たらなければ先がわからない、そんなワクワク感を演出しようとしたのだ。細かく分けられた区画、T字路は紛れやすく、身を隠したいあらゆる人もおびき寄せた。結果としてさらに人が集まった。いろんな意味でワクワクする街になっていった。

「安全だけど安心しない街にしたい」と長く振興組合の事務局長を務めた城さんは言っていた

戦後数年は、安全も安心もなかっただろう。しかしワクワクはあったに違いない。外国人、やくざも含めて、たくさんの人が集まって、違法合法のあらゆる手段で人を惹きつけた。綺麗事にするつもりは毛頭ないが、たくさんの人が血と汗を流しながら通り過ぎていって今の寛容で紛れやすい猥雑な街の基礎を作ったのだろう。

そんな寛容さのおかげで、60~70年代の新宿が、大島渚監督の「新宿泥棒日記」の世界観のような文化を醸成させる土壌にもなっていたのではないかと思う。本間健彦『60年代新宿アナザー・ストーリー』に詳しいが、その頃は確かにカウンターカルチャーの拠点としても新宿は機能していたようだ。歌舞伎町にもエネルギーに満ち溢れた若者たちが集まっていたことが想像できる。その時代に私はとても憧れる。

カルチャーだけでなく、性産業においてもノーパン喫茶やのぞき部屋という伝説のような店が横行したのもその頃だ。そんな土壌が安全な訳がない。欲望にきりはなく、金という儚い夢にすがる人々が集まって、歌舞伎町は誰も取りまとめることなく、そして誰でも生きられる街になっていったのだと思う。

(『新宿・歌舞伎町 人はなぜ<夜の街>を求めるのか』「元々森と沼だった歌舞伎町の歴史」より)

関連書籍

手塚マキ『新宿・歌舞伎町 人はなぜ<夜の街>を求めるのか』

戦後、新宿駅周辺の闇市からあぶれた人々を受け止めた歌舞伎町は、アジア最大の歓楽街へと発展した。黒服のホストやしつこい客引きが跋扈し、あやしい風俗店が並ぶ不夜城は、コロナ禍では感染の震源地として攻撃の対象となった。 しかし、この街ほど、懐の深い場所はない。職業も年齢も国籍も問わず、お金がない人も、居場所がない人も、誰の、どんな過去もすべて受け入れるのだ。 19歳でホストとして飛び込んで以来、カリスマホスト、経営者として23年間歌舞伎町で生きる著者が<夜の街>の倫理と醍醐味を明かす。

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新宿・歌舞伎町

2020年11月26日発売の新書『新宿・歌舞伎町』について

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手塚マキ

歌舞伎町でホストクラブ、バー、飲食店、美容室など10数軒を構える「Smappa! Group」の会長。歌舞伎町商店街振興組合常任理事。JSA認定ソムリエ。1977年、埼玉県生まれ。川越高校卒業、中央大学理工学部中退。97年から歌舞伎町で働き始め、ナンバーワンホストを経て、独立。ホストのボランティア団体『夜鳥の界』を仲間と立ち上げ、深夜の街頭清掃活動を行う一方、NPO法人グリーンバードでも理事を務める。2017年には歌舞伎町初の書店『歌舞伎町ブックセンター』をオープンし、話題に。著書に、『自分をあきらめるにはまだ早い』『裏・読書』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ホスト万葉集』(共著、講談社)がある。

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