古典とは時代を超越した作品であり、決して古くなることがない――。無類の読書家として知られる経済学者の野口悠紀雄さんは、次々刊行される経営書やビジネス書を乱読するより「古典」を読もう、と言います。なぜなら古典には、仕事や人生の深い洞察が凝縮されているから。そしてそれが今も役に立つから。勉強は自分の血肉にしないともったいない!大反響の『だから古典はおもしろい』(幻冬舎新書)から試し読みをお届けします。
巧みな比喩で、複雑な概念を伝えた
イエスが説教において用いたテクニックは、比喩です。
イエスは、伝道にあたって、多くの比喩を用いました。というより、イエスの説教のほとんどにおいて、比喩が登場するのです。実際、聖書に、つぎのように書いてあります。
イエスすべて此等(これら)のことを、譬(たとへ)にて群衆に語りたまふ、譬ならでは何事も語り給はず。
(『我らの主なる救主イエス・キリストの新約聖書』改訳、日本聖書協会、マタイ伝、第13章、34)
そして、「なぜ譬(たと)えで言うのでしょうか?」との弟子たちの質問に対して、イエスは、「人々は理解力が低いからだ」と答えています。
確かに、比喩を用いれば、複雑な概念を分かりやすく伝えることができます。説得において、巧みな比喩は極めて有用で強力な武器なのです。
例えば、イエスは、「新しい葡萄(ぶどう)酒を古い皮袋に入れてはいけない」と言っています(マタイ伝、第9章、17)。
「大事なものや新奇な発想は、それにふさわしい環境に置け。そうしないと真価が発揮されない」と抽象的に言うよりは、ずっとよく分かります。葡萄酒も皮袋も日常的なものですから、「新しい葡萄酒でも古い皮袋に入れれば、まずくなる」ということが、誰にでも、直ちに分かるのです。
あるいは、「金持ちが天国に迎えられるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」とも言っています(マタイ伝、第19章、24)。
ラクダは、中近東ではごく普通に見られる動物で、しかもかなり大きいので、「これが針の穴を通るのは難しい」と直ちに理解できたでしょう。そして、貧しい人たちは、「自分たちは貧しいが幸せだ」と感じたことでしょう。
また、「わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ」(ヨハネ伝、第15章、5)と言っています。
これを聞いた弟子たちは、葡萄の木を想像して、イエスとのつながりを実感し、連帯感を強めたに違いありません。
葡萄の木には太い幹があり、幹や枝は複雑に曲がったり、絡み合ったりしています。つながっていないようにも見えるが、実はつながっています。そして、沢山の実がなっています。だから、「イエスと弟子たち」というイメージに結びつくのです。
もし、百合の花を持ち出したらどうでしょうか? あまりに単純な構造の植物なので、「イエスと弟子たち」という関係は想像できないでしょう。
比喩は、われわれも、さまざまなところで利用できます。
例えば、経済政策の議論をしているとき、「経済構造の改革とは手術のようなものだが、痛みを伴う。そのため、金融政策という麻薬が使われがちだ。しかし、それでは病気は重くなるばかりだから、痛みを伴うにしても構造改革が必要だ」といった主張をすれば、理解されやすく、したがって支持も集まるでしょう。
(最終回へ続く)
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