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一〇三歳、ひとりで生きる作法

2021.03.26 更新 ツイート

私を立ち返らせたニューヨーク 篠田桃紅

百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
自分の道を追い求め、最後まで現役を貫いた桃紅さん。その凛とした強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集・第2弾『一〇三歳、ひとりで生きる作法』より、感動のメッセージをお届けします。(連載『一〇三歳になってわかったこと』もあわせてお読みください)

*   *   *

どちらかというと、私はよく歩くほうだったと思っている。

父母の家も郊外だったし、私自身も、都心住まいより郊外住まいが多かったから、どこへ行くにも私鉄の沿線に沿って、草の多い道を、雨のなか、風のなか、歩いたものである。

ニューヨークに住んでいたときは、マンハッタンの街なかだったが、歩道の広い通りを歩きに歩いた。

初めに住んだのは、イーストリバーに近い八十一丁目で、リバー沿いの公園歩きは日課だった。同じ八十丁目台にあるメトロポリタン美術館には、 毎週、通いつめた。同じ八十丁目台にあっても、広いアベニューを四つ横切らなければならないから、道のりは相当あった。あの厖大(ぼうだい)なコレクションを一日に一部門、エジプトアート、アジアアート、ギリシャとローマアートと順々に観て歩いて、四か月ぐらいかかった。

 

春が終わり夏に入ると、メトロポリタン美術館の庭や続きのセントラル・パークの緑は、グリーンもグリーン、さわれば手のひらにグリーンの絵の具がべっとりつくのではないかと思うような緑色になった。日本の夏はしたたる青葉というが、ニューヨークに比べれば、控えめな緑だったんだな、と思ったものである。

緑ばかりではない。館長室でお茶をごちそうになったとき、さりげなく開けてくれたチョコレートの箱。長さ五十センチ、厚み二十センチぐらいあるハート形の箱の封を切ると、チョコレートがびっしり並び、あげ底なしの数段詰めだった。思わず、日本に送ってあげたいと思うほど、あふれんばかりの量だった。

一九五六年、まだ日本人はそういう思いでアメリカにいたのだ。

 

その頃、私は緑陰のベンチに座って、ここは控えめにする理由はなにもない国柄なのか。控えめは美徳にはならないのかもしれない、と感じていた。着いて一年近く経とうとしていたなか、画廊との契約、移民局での滞在延期の交渉などで、少しずつ考えさせられていた。

 

ニューヨークの夏はかなり暑い。たいていの画廊は六月半ばから九月半ばまで休暇で、芸術家たちもみなどこかへ行ってしまう。私はそんな身分ではないので、知人の画家夫妻がニューメキシコの別邸に避暑しているあいだ、彼らのグリニッチ・ビレッジのアトリエに住まわせてもらうことにした。

そこでの二か月間も、私は歩きまわった。

ビレッジの魅力を前に、暑さはものともしなかった。隅から隅まで、買い物は買い物だけで済まさず、郵便出しは郵便局だけで終わらさず、足の向くままついでに歩きまわった。

路上で絵を描いて売っていた人たち、手製のバッグをつくって売っていたおばさんの店、スペイン人のコーヒーショップ、日本の骨董店、「日本人はサカナがわかる」と言ってお魚を安く売ってくれたリトル・イタリーの店、O・ヘンリーの小説『最後の一葉』の情景そのままにツタがからんだ二階の窓……。

何十年経っても、私のなかのグリニッチ・ビレッジが変わらないのは、それだけ印象が強かったからだが、と同時に、そのときの私の心境にも関係していたと思う。

かなり困難な渡米を果たし、ビザは最長二か月だったが美術館や画廊の力を借りて、滞在延期の許可を繰り返し取っていた。世界中から来た芸術家がひしめくこの都会で、運よく、そこそこにいいギャラリーで個展を開いたが、もう一度発表したい、それが実現できるかもしれない、と思い始めていた。

また、ニューヨークには、私の制作上の迷いを取り払う空気もあった。

なかでもビレッジには、心にしみる濃い空気が流れていた。それは、人間の心の底の深い悲しみの色合いを感じさせるもので、もろもろの表層の現象の内側に、私を立ち返らせてくれた。

すぐ近所に、偉大な作曲家、バルトークがかつて住んでいた部屋もあった。

そこで、彼は極貧で電灯を止められ、ろうそくの灯で名曲、無伴奏ヴァイオリンソナタを書いたという話は、私の胸にしみた。

九丁目の書店で、本の立ち読みをしている若い人の横顔、その書店で孔雀(くじゃく)の羽根をおどおどした声で売っている少女、ワシントン・スクエアで、朝から晩まで聴く人がいてもいなくても、ギターを弾き語る若者。

私は意識的ではない共感を持てたのだった。それは、戦前、戦中の私の青春の時期に持つことのなかったものである。

秋が来て、画家夫妻が戻り、私は八十一丁目に帰ったが、しょっちゅうバスでビレッジに来ていた。公園の木々は黄ばみ、並木の葉が道端に立てかけた絵に落ちかかり、店々の品も人の身なりも色合いを深め、一帯に灰紫色の一刷毛(ひとはけ)をはいたような街のたたずまいが、忘れがたくよみがえる。

その後、私は、シンシナティ、シカゴ、ワシントンD. C. などで個展の巡回をして、最後、サンフランシスコから日本への帰途についた。

ニューヨークを歩きまわっていたあの頃を、私の心のうえの「若い日」としたいと思う。

遅まきながら、
心のうえの若い日を取り戻す。

関連書籍

篠田桃紅『一〇三歳、ひとりで生きる作法 老いたら老いたで、まんざらでもない』

百歳を超えた今でも筆をとり、制作に励む孤高の美術家、篠田桃紅。その墨を使った独特の作品は、世界中から注目されている。「人の成熟はだんだん衰えていくところにあるのかもしれない」「人生、やり尽くすことはできない。いつもなにかを残している」。老境に入ってもなお、若さに媚びず現役を貫く、その強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集。

篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』

「いつ死んでもいい」なんて嘘。生きているかぎり、人間は未完成。大英博物館やメトロポリタン美術館に作品が収蔵され、一〇〇歳を超えた今なお第一線で活躍を続ける現代美術家・篠田桃紅。「百歳はこの世の治外法権」「どうしたら死は怖くなくなるのか」など、人生を独特の視点で解く。生きるのが楽になるヒントが詰まったエッセイ。

篠田桃紅『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』

若き日も暮れる日も、それなりにいい……。長く生きすぎたと自らを嘲笑する、希代の美術家、篠田桃紅。一〇五歳を超えてなお、筆と向き合い作品を発表する。「歳と折れ合って、面白がる精神を持つ」「多くを持たない幸せ」「頼る人にならない。頼られる人にもならない」。一人暮らしを愉しみ、生涯現役を貫く著者が残す、後世へのメッセージ。

篠田桃紅『人生は一本の線』

「私の言葉なんて無意味です。百万の言葉より、一本の線が私の伝えたかったことです」――104歳美術家、珠玉の作品集。墨を用いた抽象表現主義者として世界的に広く知られ、今も第一線で活躍する篠田桃紅氏。著書『一〇三歳になってわかったこと』もベストセラーになった現代美術家の、新作をふくむ貴重な作品と、珠玉のエッセイによる画文集。

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一〇三歳、ひとりで生きる作法

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篠田桃紅

美術家。1913(大正2)年生まれ。東京都在住。墨を用いた抽象表現主義者として世界的に広く知られており、100歳を超えてからも第一線で制作を続けた。その作品は大英博物館、メトロポリタン美術館をはじめ、世界中の美術館に収蔵されている。著書に『一〇三歳になってわかったこと』『一〇三歳、ひとりで生きる作法』『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』『人生は一本の線』(すべて幻冬舎)などがある。2021年3月逝去。

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