百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
自分の道を追い求め、最後まで現役を貫いた桃紅さん。その凛とした強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集・第2弾『一〇三歳、ひとりで生きる作法』より、感動のメッセージをお届けします。(連載『一〇三歳になってわかったこと』もあわせてお読みください)
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どちらかというと、私はよく歩くほうだったと思っている。
父母の家も郊外だったし、私自身も、都心住まいより郊外住まいが多かったから、どこへ行くにも私鉄の沿線に沿って、草の多い道を、雨のなか、風のなか、歩いたものである。
ニューヨークに住んでいたときは、マンハッタンの街なかだったが、歩道の広い通りを歩きに歩いた。
初めに住んだのは、イーストリバーに近い八十一丁目で、リバー沿いの公園歩きは日課だった。同じ八十丁目台にあるメトロポリタン美術館には、 毎週、通いつめた。同じ八十丁目台にあっても、広いアベニューを四つ横切らなければならないから、道のりは相当あった。あの厖大(ぼうだい)なコレクションを一日に一部門、エジプトアート、アジアアート、ギリシャとローマアートと順々に観て歩いて、四か月ぐらいかかった。
春が終わり夏に入ると、メトロポリタン美術館の庭や続きのセントラル・パークの緑は、グリーンもグリーン、さわれば手のひらにグリーンの絵の具がべっとりつくのではないかと思うような緑色になった。日本の夏はしたたる青葉というが、ニューヨークに比べれば、控えめな緑だったんだな、と思ったものである。
緑ばかりではない。館長室でお茶をごちそうになったとき、さりげなく開けてくれたチョコレートの箱。長さ五十センチ、厚み二十センチぐらいあるハート形の箱の封を切ると、チョコレートがびっしり並び、あげ底なしの数段詰めだった。思わず、日本に送ってあげたいと思うほど、あふれんばかりの量だった。
一九五六年、まだ日本人はそういう思いでアメリカにいたのだ。
その頃、私は緑陰のベンチに座って、ここは控えめにする理由はなにもない国柄なのか。控えめは美徳にはならないのかもしれない、と感じていた。着いて一年近く経とうとしていたなか、画廊との契約、移民局での滞在延期の交渉などで、少しずつ考えさせられていた。
ニューヨークの夏はかなり暑い。たいていの画廊は六月半ばから九月半ばまで休暇で、芸術家たちもみなどこかへ行ってしまう。私はそんな身分ではないので、知人の画家夫妻がニューメキシコの別邸に避暑しているあいだ、彼らのグリニッチ・ビレッジのアトリエに住まわせてもらうことにした。
そこでの二か月間も、私は歩きまわった。
ビレッジの魅力を前に、暑さはものともしなかった。隅から隅まで、買い物は買い物だけで済まさず、郵便出しは郵便局だけで終わらさず、足の向くままついでに歩きまわった。
路上で絵を描いて売っていた人たち、手製のバッグをつくって売っていたおばさんの店、スペイン人のコーヒーショップ、日本の骨董店、「日本人はサカナがわかる」と言ってお魚を安く売ってくれたリトル・イタリーの店、O・ヘンリーの小説『最後の一葉』の情景そのままにツタがからんだ二階の窓……。
何十年経っても、私のなかのグリニッチ・ビレッジが変わらないのは、それだけ印象が強かったからだが、と同時に、そのときの私の心境にも関係していたと思う。
かなり困難な渡米を果たし、ビザは最長二か月だったが美術館や画廊の力を借りて、滞在延期の許可を繰り返し取っていた。世界中から来た芸術家がひしめくこの都会で、運よく、そこそこにいいギャラリーで個展を開いたが、もう一度発表したい、それが実現できるかもしれない、と思い始めていた。
また、ニューヨークには、私の制作上の迷いを取り払う空気もあった。
なかでもビレッジには、心にしみる濃い空気が流れていた。それは、人間の心の底の深い悲しみの色合いを感じさせるもので、もろもろの表層の現象の内側に、私を立ち返らせてくれた。
すぐ近所に、偉大な作曲家、バルトークがかつて住んでいた部屋もあった。
そこで、彼は極貧で電灯を止められ、ろうそくの灯で名曲、無伴奏ヴァイオリンソナタを書いたという話は、私の胸にしみた。
九丁目の書店で、本の立ち読みをしている若い人の横顔、その書店で孔雀(くじゃく)の羽根をおどおどした声で売っている少女、ワシントン・スクエアで、朝から晩まで聴く人がいてもいなくても、ギターを弾き語る若者。
私は意識的ではない共感を持てたのだった。それは、戦前、戦中の私の青春の時期に持つことのなかったものである。
秋が来て、画家夫妻が戻り、私は八十一丁目に帰ったが、しょっちゅうバスでビレッジに来ていた。公園の木々は黄ばみ、並木の葉が道端に立てかけた絵に落ちかかり、店々の品も人の身なりも色合いを深め、一帯に灰紫色の一刷毛(ひとはけ)をはいたような街のたたずまいが、忘れがたくよみがえる。
その後、私は、シンシナティ、シカゴ、ワシントンD. C. などで個展の巡回をして、最後、サンフランシスコから日本への帰途についた。
ニューヨークを歩きまわっていたあの頃を、私の心のうえの「若い日」としたいと思う。