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一〇三歳、ひとりで生きる作法

2021.03.29 更新 ツイート

機械音が身のまわりの音に取って代わった 篠田桃紅

百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
自分の道を追い求め、最後まで現役を貫いた桃紅さん。その凛とした強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集・第2弾『一〇三歳、ひとりで生きる作法』より、感動のメッセージをお届けします。(連載『一〇三歳になってわかったこと』もあわせてお読みください)

*   *   *

以前にくらべて、心を留める音が、身辺に少なくなったような気がする。

心を留める、というのは、その音にふと心が惹かれることで、あらかじめ聴こうとして聴く音楽もあるが、どちらかというと自然の音。たとえば、風の音とか波の音。そして人がなにげなく立てる物音のたぐいである。

とにかく、都会ではやたらといろいろな音が押し寄せてきて、なかには心惹かれる音も混ざっているのかもしれないが、 さまざまな騒音にかき消されて、心耳(しんじ)を澄ます、というような音には、なかなか出会わない。

人は、コンクリートの箱のなかに住み、外部の音は遮断できたつもりでも、空調機は機械の音を立て、インターホンや携帯などの電話も機械音。昔の訪れの人声、門や格子の開閉の音も耳にしなくなった。

私は、少女の頃、隣室の母の立てる物音に耳を澄ましたのが、心を留めた音の始まりだったように思う。

 

母がなにか片づけものをしていたらしい。キュッ、キュッ、と紐を締める断続音が快く聴こえたのは、キュッ、キュッ、が生き生きとした弾力ある音で、リズムがあったためでもあろう。きっと心楽しく片づけものをしていたので、まだ若かった母の心のリズムだったかもしれない。きものの衣擦れ、畳の上を摺る足音、扇をはたはたとさせる音など、よき音、として心惹かれた。

人と人のかかわりも「おとずれ」「おとなり」と「おと」という言葉から始まる。しかし、その音を機械に任せてしまってから、人と人のあいだも、あわれが浅くなったような気がする。

戸に霧雨のあたる音、落葉や霜を踏む音、熊笹を吹き分ける風。昔は毎日、そんな音に囲まれて暮らしていた。

学校まで小一時間、私は姉と歩いて通っていたが、霜も踏めば若草も踏んだ。竹の皮がぱさりとはがれる音を、藪のそばを通るときどきに聴き、はっとした。橋の下をゆく小流れの雪解けの水音も聴いた。

今でも、そら耳にそういう音を聴くことがあり、堪えがたいほどに、その頃がなつかしくなる。目よりも耳に宿る印象は強いように思われる。

町のなかも、筆をつくっている店の前を通ると、いつも竹を切る音がしていたし、数珠を磨いている家の、珠と珠との擦れる、かそけき音などは、ふしぎと鮮やかに耳によみがえる。

人が立てる物音、自然の音。それらの持つ深い息づかい、繊細さ、豊かさ、そういうものが聴き取りにくくなったことは寂しい。機械の音が、失われたそういう音に代わりえるかどうか、疑わしい。

私は、音をかたちに置きかえるような気持ちで筆をとることも多い。音を墨いろに託すのであるが、特にその意識なく描いた墨いろから、音が聴こえてくることもある。それらはいつも遠い日の音である。

生前、モダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイスさんが、

「あなたの墨の色のなかには、私が表現したいと思っている音がある」と言ってくれたことがあったが、遠い日の音は、古今東西、人の心を留める魅力を持っているように思う。

耳によみがえる昔の音、
今はもう聴こえなくなった。
人と人のあわれも浅くなる。

関連書籍

篠田桃紅『一〇三歳、ひとりで生きる作法 老いたら老いたで、まんざらでもない』

百歳を超えた今でも筆をとり、制作に励む孤高の美術家、篠田桃紅。その墨を使った独特の作品は、世界中から注目されている。「人の成熟はだんだん衰えていくところにあるのかもしれない」「人生、やり尽くすことはできない。いつもなにかを残している」。老境に入ってもなお、若さに媚びず現役を貫く、その強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集。

篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』

「いつ死んでもいい」なんて嘘。生きているかぎり、人間は未完成。大英博物館やメトロポリタン美術館に作品が収蔵され、一〇〇歳を超えた今なお第一線で活躍を続ける現代美術家・篠田桃紅。「百歳はこの世の治外法権」「どうしたら死は怖くなくなるのか」など、人生を独特の視点で解く。生きるのが楽になるヒントが詰まったエッセイ。

篠田桃紅『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』

若き日も暮れる日も、それなりにいい……。長く生きすぎたと自らを嘲笑する、希代の美術家、篠田桃紅。一〇五歳を超えてなお、筆と向き合い作品を発表する。「歳と折れ合って、面白がる精神を持つ」「多くを持たない幸せ」「頼る人にならない。頼られる人にもならない」。一人暮らしを愉しみ、生涯現役を貫く著者が残す、後世へのメッセージ。

篠田桃紅『人生は一本の線』

「私の言葉なんて無意味です。百万の言葉より、一本の線が私の伝えたかったことです」――104歳美術家、珠玉の作品集。墨を用いた抽象表現主義者として世界的に広く知られ、今も第一線で活躍する篠田桃紅氏。著書『一〇三歳になってわかったこと』もベストセラーになった現代美術家の、新作をふくむ貴重な作品と、珠玉のエッセイによる画文集。

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一〇三歳、ひとりで生きる作法

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篠田桃紅

美術家。1913(大正2)年生まれ。東京都在住。墨を用いた抽象表現主義者として世界的に広く知られており、100歳を超えてからも第一線で制作を続けた。その作品は大英博物館、メトロポリタン美術館をはじめ、世界中の美術館に収蔵されている。著書に『一〇三歳になってわかったこと』『一〇三歳、ひとりで生きる作法』『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』『人生は一本の線』(すべて幻冬舎)などがある。2021年3月逝去。

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