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一〇三歳、ひとりで生きる作法

2021.03.27 更新 ツイート

杉の香りがなつかしい昔に連れ戻す 篠田桃紅

百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
自分の道を追い求め、最後まで現役を貫いた桃紅さん。その凛とした強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集・第2弾『一〇三歳、ひとりで生きる作法』より、感動のメッセージをお届けします。(連載『一〇三歳になってわかったこと』もあわせてお読みください)

*   *   *

富士山麓には、まだ少しは原生林の面影の残っている林がある。

ある夏の午後、ハリモミの林から杉林を歩き抜けると、街道に出た。三人連れの女の人たちが、私の前を横切って行った。

彼女たちは、いかにも避暑地らしい、しゃれた身なりで散歩していたのだが、不意になんともいえない感じに襲われて、私は立ちすくんでしまった。

匂いであった。

彼女たちの香水の匂い、と気づいた。異様だったのである。私はふだん、香水は用いないが、人がつけている香水を特に嫌うほどでもない。強すぎないかぎりは、いい匂いだと思うこともある。

だが、そのときの私は、明らかに違和感を抱いた。異質なものへの拒絶反応というものがあった。

我知らず林へ引き返し、杉の幹にもたれて、しばらくぼんやりしていた。

樹木のあいだを縫って来る風が、今しがた侵入した人工の匂いを次第に消してくれていた。ふっと、遠い日の記憶がよみがえってきた。

匂いの記憶。数十年も前の、杉の匂いがよみがえった。

 

それは、マンハッタン五十七丁目のビルの五階の画廊でのことだった。私は初めてニューヨークで個展を開くことになっていた。着いた作品の荷物を解いていると、荷物からなんとも知れない、いい匂いが漂ってきた。

画廊の女主人が私を見て言った。

「トーコーの絵はなにを使っているのか。いい匂いがしてくる」

仕事を手伝っている若い男の人たちも、口々に言う。

「これが墨の匂いだろうか。なんといういい匂い」

墨の匂いではないと思いながら、私もなんの匂いかわからない。

外箱が開けられて、作品が出てきた。

一点一点の作品のあいだに杉板があてられていた。杉の匂いだった。

仮梱包で私の仕事場から持ち出されたので、私は、本梱包がどうなっているかは知らなかった。一枚一枚の杉板は無垢で、裏側に四、五本の桟(横木)が打ってあった。木の色も柾目(まさめ)も、美しい秋田杉だった。

画廊の人たちは、一様に感嘆の声をあげた。

私の作品にではない。作品はまだ紙に包まれている。

「日本ではラッピングがアートだ」

「ミス シノダ、どうぞこの板を私に一枚ください。部屋に立てて、毎日この匂いを嗅ぎたい」

「日本のシーダー(杉)がこんなにいい匂いとは知らなかった」

「それにしても、信じられないようなぜいたくな包みかた……」

ギャラリー中、すっかり杉板に魅せられてしまい、かんじんの作品が出てきても、すでにみなはいかれた表情で、私はちょっと拍子抜けした。

私が作品梱包を依頼したN氏は、東京一の美術梱包の名人といわれていた人。

「船がパナマ運河を通過しても、ムレないよう、虫もカビもつかないようにしてある」

と言ったことを思い出したが、ギャラリーいっぱいに、日本杉の香りを送り込んでくれようとは、思いもよらないことだった。

今、思い出しても、あの杉の香りは、初冬のニューヨークの乾いた空気を突き抜ける、生のものの持つ、いのちの香りだった。「香に立つ」という言葉にふさわしいものだった。

おかげで私は、心細い初めての外国で、まずまずの滑り出しができそうな気持ちになれたのだった。

香りは目に見えないものだけに、かえって感覚の記憶が失せないようだ。

ことに自然の香りは、なつかしさを呼び起こす。

このときは、数十年も前の、時間と場所に連れ戻してくれた。

香りは目に見えないだけに、
感覚の記憶が失せない。

関連書籍

篠田桃紅『一〇三歳、ひとりで生きる作法 老いたら老いたで、まんざらでもない』

百歳を超えた今でも筆をとり、制作に励む孤高の美術家、篠田桃紅。その墨を使った独特の作品は、世界中から注目されている。「人の成熟はだんだん衰えていくところにあるのかもしれない」「人生、やり尽くすことはできない。いつもなにかを残している」。老境に入ってもなお、若さに媚びず現役を貫く、その強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集。

篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』

「いつ死んでもいい」なんて嘘。生きているかぎり、人間は未完成。大英博物館やメトロポリタン美術館に作品が収蔵され、一〇〇歳を超えた今なお第一線で活躍を続ける現代美術家・篠田桃紅。「百歳はこの世の治外法権」「どうしたら死は怖くなくなるのか」など、人生を独特の視点で解く。生きるのが楽になるヒントが詰まったエッセイ。

篠田桃紅『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』

若き日も暮れる日も、それなりにいい……。長く生きすぎたと自らを嘲笑する、希代の美術家、篠田桃紅。一〇五歳を超えてなお、筆と向き合い作品を発表する。「歳と折れ合って、面白がる精神を持つ」「多くを持たない幸せ」「頼る人にならない。頼られる人にもならない」。一人暮らしを愉しみ、生涯現役を貫く著者が残す、後世へのメッセージ。

篠田桃紅『人生は一本の線』

「私の言葉なんて無意味です。百万の言葉より、一本の線が私の伝えたかったことです」――104歳美術家、珠玉の作品集。墨を用いた抽象表現主義者として世界的に広く知られ、今も第一線で活躍する篠田桃紅氏。著書『一〇三歳になってわかったこと』もベストセラーになった現代美術家の、新作をふくむ貴重な作品と、珠玉のエッセイによる画文集。

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一〇三歳、ひとりで生きる作法

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篠田桃紅

美術家。1913(大正2)年生まれ。東京都在住。墨を用いた抽象表現主義者として世界的に広く知られており、100歳を超えてからも第一線で制作を続けた。その作品は大英博物館、メトロポリタン美術館をはじめ、世界中の美術館に収蔵されている。著書に『一〇三歳になってわかったこと』『一〇三歳、ひとりで生きる作法』『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』『人生は一本の線』(すべて幻冬舎)などがある。2021年3月逝去。

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