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平熱のまま、この世界に熱狂したい

2020.12.11 公開 ツイート

フィッシュマンズ「MELODY」を聴くといつも涙がこぼれそうになる 宮崎智之

Photo by Katja Ritvanen on Unsplash

12月9日に発売された『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(宮崎智之著)は、世界を平熱のまま情熱をもって見つめることで生まれました。アルコール依存症や離婚を経験しながらも、もう一度、日常の豊かさに立ち戻ろうと決心する——。退屈な日常を刺激的な場所へと変える、不思議な魅力をはらんだ、宮崎さんの言葉を本書の一部を抜粋してお届けします。

ありのままの世界

ある文章を読み、なぜこの作者は自分の心をこんなにも理解しているのだろうか、もしかしたら忘れているだけで、過去に自分が書いた文章なのではないか。そんな感覚を覚える瞬間がある。もちろん錯覚なのだが、これはなにもぼくに限ったことではなく、たくさんの読書家や文筆家が同じような体験があることを告白している。

それは時に好きなバンドの音楽として、目の前に現れることもある。フィッシュマンズ(Fishmans)の「MELODY」を聴くたびに、ぼくはまるで歌詞の中に自分がいるかのような錯覚に陥る。

フィッシュマンズは、ボーカル、ギターの佐藤伸治らによって結成されたバンドである。佐藤は1999年の3月15日、ぼくが17歳になる前日に亡くなった。リアルタイムではほとんど追えず、フィッシュマンズの楽曲を聴き込むようになったのは、大学生以降のことだ。

ありがたいことに、フィッシュマンズは佐藤の没後もドラムスの茂木欣一(現・東京スカパラダイスオーケストラ)を中心にたびたびライブを開催しているので、何度も観に行っている。河出書房新社が発刊した『ロングシーズン 佐藤伸治詩集』も大切に持っている。

「MELODY」の歌詞の中には、佐藤のこんな言葉がある。

窓からカッと 飛び込んだ光で 頭がカチッと鳴って

20年前に 見てたような 何もない世界が見えた

すぐに終わる幸せさ すぐに終わる喜びさ

なんでこんなに悲しいんだろう

ぼくは、今でも佐藤のこの言葉を聴くと、涙が出そうになる。佐藤も同じ悲しみを抱いてくれていたのかと泣きそうになる。いつからか、ぼくも頭がうまい具合にカチッと鳴らなくなった。でもなにかの拍子に、頭のネジが元あった位置に嵌(は)まり、子どもの頃に目にしていた世界が見えた気がすることがあった。

しかし、その感覚はすぐに消え、現実に戻された。佐藤の繊細な精神、感受性、魂に響くような言葉の強さと弱さ。脆く儚いこの世界を、こんなにも率直な言葉でとらえた同時代の表現者はほかにいなかったのではないか。

そして、佐藤の言葉に寄り添い続けながら、ぼくは大切なことを学んだ。それは、言葉には不思議な力があり、その力は閃光のように脳天を貫くこともあれば、じわじわと後から意味がわかってくる遅効性を発揮することもある、という事実である。また、同じ言葉でも、その時々の環境や感情、年齢などによってとらえ方が変わってくることも、言葉の持つ大きな魅力であると実感させられた。

アルコールに溺れていた頃とやめたあとでは、佐藤の言葉に対するとらえ方がぼくの中で少しずつ変わっていった。酒を飲んでいた頃はとにかく悲しくて、何もない世界が見えていたときの喜びと、見えなくなってしまったあとの悲しみを忘れようとしていた。目を背けようとしていた。酒の力で悲しみを散らそうともしていた。

小学生の夏休み、朝の空気を目一杯吸い込んで、「今日はなにをしようか」と期待に胸をときめかせていた時のことを思い出す。中学生の大晦日、歌番組を観ながら翌年の目標を考えていた時のことを思い出す。高校生の放課後、飽きもせずに友達とお喋りをしていた時のことを思い出す。なぜ、今は世界を当時と同じように見たり、感じたりできないのだろうか。そんなことばかり考えていた。

ぼくはまったく取り柄のない子どもだったけど、何かを集めたり、日々のちょっとした変化や、生まれ育った東京の郊外・武蔵野の自然が移ろいゆく様を感じたりするのが大好きだった。なのに、いつの間にかそういったグラデーションを愛する気持ちを忘れ、極端なものばかり追い求めるようになっていった。

だけど、佐藤はかつてのように世界が見えなくなったことを悲しみながらも、自分の弱さに自覚的で、忠実だったのではないかと思う。少なくとも自分の弱さから目を背けようとする人ではなかったのではないか。そのうえで世界をもう一度見つめようとしていた。だから悲しかったのだ。

一方で、ぼくは思考をやめ、悲しみを誤魔化そうとしていただけだった。深く悲しもうともせず、ただ単に嘆いて投げやりになっているだけだった。ぼくは、世界から目を背けようとしていただけだった。

ミヒャエル・エンデによる児童文学『モモ』に出てくる、有名な「なぞなぞ」を思い出す。三人きょうだいのうち、一番上は今はいないが、これからやっと現れる。二番目もいないが、もう出かけた後。三番目だけが、ここにいる──。答えは上から順に、未来、過去、現在である。そして、「おまえが三ばんめをよくながめようとしても、見えるのはいつもほかのきょうだいの一人だけ!」という警句からもわかるとおり、現在を摑むのは非常に難しい。

現在は常に、過去と未来に侵食されている。人はしばしば過去への憧憬や後悔と、未来への焦燥にとらわれ、「現在」をありのままに生きることができない。

それは、ある年齢に達すれば誰にでも起こり得ることであり、そのことをことさら苦悩と感じずに生きることもできる。そのことにこだわる姿勢を、感傷的であまりに幼稚であると思う人もいる。しかし、ぼくはそうではなかったし、佐藤も同じだったのではないか。

佐藤がぼくと決定的に違ったのは、世界は変わらずそこに存在しているという事実から目をそらさなかったことだろう。「20年前」の世界は今も現前する。それを弱い自分のまま、もう一度見ようとした。

 

*引用、参考文献

ミヒャエル・エンデ『モモ』(大島かおり訳、岩波少年文庫)

関連書籍

宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』

深夜のコンビニで店員に親切にし、朝顔を育てながら磨く想像力。ヤブイヌに魅了されて駆け込む動物園。蓄膿症の手術を受けて食べ物の味がわかるようになり、トルストイとフィッシュマンズに打ちのめされる日々。そこに潜む途方もない楽しさと喜び――。私たちは、もっと幸せに気づくことができる!

宮崎智之『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』

どうにもしっくりこない人がいる。スーツ姿にリュックで出社するあの人、職場でノンアルコールビールを飲むあの人、恋人を「相方」と呼ぶあの人、休日に仕事メールを送ってくるあの人、彼氏じゃないのに“彼氏面”するあの人……。古い常識と新しい常識が入り混じる時代の「ふつう」とは? スッキリとタメになる、現代を生き抜くための必読書。

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平熱のまま、この世界に熱狂したい

世界を平熱のまま情熱をもって見つめることで浮かびあがる鮮やかな言葉。言葉があれば、退屈な日常は刺激的な場へといつでも変わる

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宮崎智之

フリーライター。1982年生まれ。東京都出身。地域紙記者、編集プロダクションなどを経てフリーに。日常生活の違和感を綴ったエッセイを、雑誌、Webメディアなどに寄稿している。著書に『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。
Twitter: @miyazakid

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