
ニューヨークに出てきて1年目は、無理してマンハッタンに住んだけれど、家賃と生活費でぎりぎりという生活に嫌気が差して、家賃を抑えるためにクイーンズに引っ越した。通勤に使った7番線という電車は、移民の街ニューヨークのなかでも、一番移民に乗られていると言われていた。実際、聞いたことのない言語がよく耳に飛び込んできた。マンハッタンの仕事場とクイーンズを往復する労働者にまじって電車に揺られると、慣れないニューヨークの生活の辛さを我慢できるような気がした。
90年代の終わりに勤めた二番目の会社は、学術出版を専門にする中小企業で、社長はユダヤ人だった。最初の面接のときに社長が「うちは国連みたいなんだよ」とうれしそうに言った。履歴書の住所を見た副社長は「Why?」と言った。「クイーンズにはカルチャーはない。なんでブルックリンに住まないんだ」
友達のなかにはウィリアムズバーグに引っ越す人も出始めた頃で、たしかにブルックリンにはカルチャーがあった。どこに住んでるの?と言われ、「クイーンズ」と答えたときの「へ~」という感じからクイーンズが少し下に見られていることが理解できた。でも私は「文化がない」はずのクイーンズをけっこう気に入っていた。チベット料理のレストランで、チベット解放運動のミーティングを開いているチベット人たちの横でモモと呼ばれる餃子のようなものを食べるのも好きだったし、コロンビアのファミリーレストランで、お客がウェイトレスの気を引こうとするのを見るのも楽しかった。それに、アメリカに来たばかりで自信のなかった自分には、白人ではない人たちに囲まれて暮らすのが心地よかった。クイーンズは平和だった。
社長が「国連」と胸を張ったのは誇張ではなかった。確かに、白人黒人、ヒスパニック、スラブ人、キューバ人、ロシア人、マレーシア人と、いろんな国の人がいた。 トリニダ ードやギニアのことは、その会社で初めて知った。ヒスパニック、と一緒くたに語られる人たちも、いろんな場所からやってくるのだということも。
職場で向かいに座っていたIT担当のアレックスは、口は悪いけれど気のいいプエルトリカンだった。ラテン音楽よりもバックストリート・ボーイズに夢中になっている娘に閉口していた。「知ってるか? ちょっと前まで、ヒスパニックが事件を起こすと、ニュースは確認もせずに『プエルトリコ人男性が』って言ってたんだぜ。ひどいだろ?」
ヒスパニックは、スペイン語を話す国の血を引く人たちを言う。中でも、プエルトリコはアメリカ領だから、人口が大きい。その会社には、ドミニカ人も、キューバ人もいた。
プエルトリカンでも、肌の色はライトなほうがいいとされているーーそんな話をアレックスがしていると黒人のキムが「黒人だってそうなのよ。前のボーイフレンドを連れて帰ったら、おばあちゃんが『あの子は肌が黒すぎる』って言うんだよ」
あるとき、黒い革靴の角が擦れて白くなったところを、シャーピーと呼ばれるマーカーで塗っていたら、キムがやってきて、呆れた声を出した。
「あんたってほんとにゲトー。私だってそんなことしないわよ」
通りかかったアレックスがこれを聞きつけて、「ゲトー・ジャップ、愉快だな」と連呼し始めた。白人の上司たちは顔をしかめたけれど、アレックスはおかまいなしだった。
「蔑称っていうのは、愛情を込めれば使ってもいいんだよ。だからお前は俺のことをスピック(ヒスパニックの蔑称)って呼んでもいいんだぜ」
それでも黒人の男の子たちが、お互いのことをニガと呼び合うのにはどうしても慣れなかった。
こと多様性においてはずいぶん進んでいるはずのニューヨークのような場所でも、差別は確実にある。それを理解するのに大した時間はかからなかった。「国連みたいな」会社でも、高いポジションについているのはアメリカの白人ばかりなのだ。世の中では、ヒスパニックと黒人だけを標的にしたレイシャル・プロファイリング(人種を根拠にした職務質問)が問題になっていた。少しずつ、そういう世の中の「現実」を理解した。
あるとき、通っていた大学院があった街で友達になったアレンが、ニューヨークに遊びにきた。母親が公民権運動の運動家で、インテリの黒人家庭で育ったアレンは細身の大男で、ボリューム感のあるドレッドのせいで、どこに行っても目立った。雨の中、ダウンタウンに遊びにいこうということになった。タクシーを止めようとしたけれど、空車のサインを出した車が、私たちが見えないみたいに何台も通りすぎていく。
「見てろ、俺が隠れればすぐに止まるぜ」
アレンが近くの店の軒先に隠れると、すぐに私の前にタクシーが止まった。自分の肌の色と外見を理由に拒絶されるーー自分は経験したことのないことだった。黙り込んだ私に、アレンはさばさばと言った。
「It is what it is」
こういうことは彼にとっては日常なのだった。(続く)
みんなウェルカム

NYで暮らすようになって20年。ブルックリン在住のフリーライターが今、考えていること。きわめて個人的なダイバーシティについての考察。