 
						「神奈川沖浪裏」「北斎漫画」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、ジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞した、気鋭のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。(前回まではこちらから)
 
春章のもとで修業する春朗[しゅんろう](のちの北斎)は、役者絵や相撲絵を描いていた。だが32歳の頃、師匠の春章が死んだことで波乱が起きる。ある時春朗は、絵双紙問屋の頼みで絵看板を描いた。それを見とがめた兄弟子の春好に、「この絵は勝川の名に泥を塗る」と酷評され、あげくに面前でびりびりに破られてしまった。春好の中には、師匠の覚えめでたい春朗に対する嫉妬があり、師匠の死でそれが一気に吹き出したと言われている。
 この仕打ちに春朗は腸が煮えくり返る思いだったが、兄弟子だけに言葉も返せない。じっとこらえて引き下がったが、この時春朗の心の中に「いつか必ず日本一の画工になって今日の恥をすすいでやる」との思いが固まった。
 もはや勝川派には居場所のなくなった春朗は、浜町にあった狩野派五世寛信の門を叩いた。室町中期に起こり将軍家御用達の絵師であった狩野派は、江戸中期以降は全国諸大名のお抱え絵師の総元締めとして、その画風を全国に普及させていた。
 この時の春朗の心情は「絵を学ぶのであって古人を学ぶのではない」。
 狩野派の画風は学ぶに相応しいものではあったが、この時五世寛信は春朗より18歳年下の17歳。完全な世襲の一門であり、春朗は門弟であることには何の意味も感じていなかった。
 のちオランダ商館長カピタンが連れてきた医師が、発注した絵を値切ろうとすると、「約束が違う」と全て引き上げてしまったほど一本気の春朗のこと。じきに師匠とトラブルを起こして狩野派も破門となり、以降雲谷派、琳派、土佐派と渡り歩くことになる。同時に勝川派からも「春朗」を名乗ることを禁じられ、ここからが新生北斎のスタートとなった。
 狩野派を飛び出したのち画法修業として門を叩いたのは、のちの読本挿絵や肉筆画に成果を見せる中国の沈南蘋(ちんなんぴん)派の花鳥画、文人画、円山派。やがて36歳の時に大和絵装飾画の俵屋宗理に学び二代目宗理を襲名。この頃は衣装文様の細密な肉筆美人画を残している。
 とはいえ34歳で勝川を離れてから38歳で北斎辰政と称するまでの4年間。北斎は師匠もなく名もなく地本問屋を納得させる代表作もなく、苦悩の時代だった。極貧の中で唐辛子や柱暦を売り歩いたことすらあったという。
 江戸期15人の将軍の平均寿命は51歳というデータがある。40歳になると初老と呼ばれ、隠居する者も珍しくない。この時代に30代半ばといえばもはやベテランだ。大看板の一門に入っていればそれなりの収入はあったはず。世襲により師匠を継いでもおかしくない。勝川派にしても狩野派にしても、時代を代表する一門にすぐに入れたのだから、画力は認められていたのだ。
 だが北斎は群れることを潔しとせず、常に孤高にして赤貧。多流派を渡り歩き画法だけを貪欲に漁っていた。
 ようやく絵師としての地歩を得られたのは、二代目宗理時代の美人画だった。世間からは宗理型美人と呼ばれるロマンチックな女絵を描いた。その表情には女の機微が含まれていると評判になり、絵双紙屋からも注文が舞い込むようになる。
 つまり北斎は、遅咲きなのだ。不惑を前にした39歳の時に不染居北斎と号し、狂歌本の挿絵を描いて評判をとる。翌40歳の時には画狂人と号し、洋画の画法を取り入れた風景画で注目を集める。江戸名所を描いた作品は傑作と賞された。
 
思えば勝川派に居たころ、兄弟子の春好が作品を足げにしてくれたお蔭で、北斎は様々な画法と画力を蓄えることができたのだ。
知られざる北斎

長澤まさみさんが主演する映画『おーい、応為』が話題です。
モネ、ゴッホを魅了し、西洋で「東洋のダ・ヴィンチ」と称された葛飾北斎。
その名を世界に広めた画商・林忠正、そして晩年を支えた小布施の豪商・髙井鴻山。芸術と資本、江戸と西洋が交錯する中で創作に生きた画家の生涯を描いた書籍『知られざる北斎』もあわせてお楽しみください。本書から一部を抜粋してお届けします。
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