
先日、池袋の「あうるすぽっと」にて上演されていた、劇団昴創立50年記念公演『チャリング・クロス街84番地』を観に行った。原作の文庫本にエッセイを寄稿した縁もあり、本公演のパンフレットに小文を寄せることになったのだ。劇団昴は福田恆存や芥川比呂志らが創設した団体を源流としている。そのせいか『クリスマス・キャロル』や『アルジャーノンに花束を』といった文芸作品の上演が多く、この『チャリング・クロス街84番地』も彼らを代表する演目となっている。しかしロンドンの古書店とニューヨークのアパートメントの一室で交わされた往復書簡をどのように舞台化するのか――期待と若干の不安とを胸に、わたしは会場まで向かった。
演劇は俳優たちの演技も舞台美術も素晴らしく、原作に忠実に描かれていた(わたしの懸念も「その手があったか!」と見事に解消されていた)。本作は1949年から71年までの、23年の物語。その間ニューヨークにいたヘレーン・ハンフは、ロンドンはチャリング・クロス街84番地にある古書店「マークス社」のフランク・ドエルから、アメリカでも買うことのできる本をわざわざ買い続けた。
ヘレーンは毎年マークス社への「巡礼の旅」を計画していたが、いつも何らかの事情が発生し、計画は中止を余儀なくされる。カーテンコールの際、実際には会うことのなかったヘレーンとフランクが観客に向かって挨拶するのを見たとき、わたしは演劇ならではのギフトを感じて胸が熱くなった。わたしのみならず観客はみな、二人の並んでいる姿を一目見たかったのだ。
ヘレーンはお金はなくても夢だけはあり、フランクから本を買い続けた日々を「私の人生のいちばん幸せな日々」と振り返る。ある手紙で彼女は「なにか読むものを送ってくれないと、わたし死んじゃうから」と、フランクに宛てて書いた。時代背景は異なれども、本というものに飢えを感じている人が確かにいたのだ。ここでわたしは自分の仕事のことを思い出した。

かつて同じ池袋にあった、勤めていた会社を辞め、自分の店を開いたとき、わたしはTitleで本を買う人たちに対し「なぜこの人たちは、こんなおもちゃみたいな店にお金を払うのだろう」と思っていた。人の家ほどの空間にただ本を並べただけの、おままごとのような店。そのような場所には色紙に印刷されたお金のほうが、よほどふさわしいのではないかと。
だがわたしはお客さんのことを見誤っていたのだろう。彼らはヘレーン・ハンフのように本が好きで、切に本を読みたかったのだとこの劇を観て思った。本を渡すことで誰かによろこんでもらえたなら、それは自分の務めを果たしたと言えるのではないか。わたしがやっている仕事は、おままごとではなかったのだ。
チャリング・クロス街84番地にあったマークス社は、ヘレーンにとっての「聖地」だった。いま聖地は気軽に巡礼できる場所になってしまったが、本来は一生に一度訪れることができるかどうかという、命がけの場所だったと思う。だが実際には訪れることが叶わなくても、自分にとっての聖地がそこにあると思うだけで、その場所は巡礼者の心をあたためることができる。そしてそのとき、その場所ができることと言えば、ただそこにあり続けるということなのだ。
終演後わたしはよく見知った道を歩きながら、十年前とは変わってしまった、自分の立つ場所のことを思った。自分の聖地はどこか(しいて言えば本の中にだけ存在する、いまはなきコルシア書店だろうか)、そしてわたしはフランク・ドエルのように、いま誰かの役に立てているのだろうか? 瞼の裏にはまだ、舞台上で光り輝いているマークス社の姿が、蜃気楼のように揺らめいていた。
今回のおすすめ本

『本屋は回る』五味太郎 増田喜昭 岩波書店
本屋の仕事をしていれば、会いたい人に会うことができる。それを体現した偉いのに偉くない、凄いのに凄くないように見える、達人・増田さんの本。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2026年10月9日(金)~ 2026年10月27日(火) 本屋Title2階ギャラリー
本と果物
異なる重力と文法で存在する
二つの有機体の出合い
—–
本屋Titleでは久しぶりとなる、nakabanの個展を開催します。
丸いりんごを見つめてみると、それ自体がひとつの小宇宙のような、吸い込まれる魅力を感じます。そして齧ってみるとどこまでも甘く、その甘さにはなつかしさも含まれている。
それならばイチジクはどうでしょう? 洋梨は? 葡萄なら?
農家により丹精に育てられた果物は宝石のようだとnakabanさんは言います。
本展では、そうした果物の隣に本を置きました。本も小さな紙の束に無限の世界を宿しているからです。実際にnakabanさんが描いてみたところ、個性的な装丁の新刊よりは、少しくたびれた古い本のほうが向いていたようです。
会場のキャプションには、果物とその隣にある本のタイトルを明記します。
絵に寄せた無名の数篇の詩も展示します。その意外な響き合いをお楽しみください。
◯2026年10月30日(金)~ 2026年11月16日(月) 本屋Title2階ギャラリー
中央線沿線が気になって最初に住んだのは西荻窪。それから2回引越しをして、30年以上この界隈に住んだ。なかでも長く住んだのは吉祥寺で、井の頭公園は目を瞑っても歩ける気がする。
中央線は高尾や奥多摩から遠くアルプスまで私を運んでくれた。山へ行くようになったのは、ここに住んでいたからかもしれない。
この春、そんな住み慣れた武蔵野を離れた。その頃を想いながら制作し、カレンダーを作りました。
秋の武蔵野に足を運んでいただけましたら幸いです。
◯【お知らせ】
新刊『本とねこと青い自転車』が発売されました。
著:辻山良雄
挿画:坂本千明
版元:信陽堂 /208P 四六変形判ハードカバー
様々な媒体に寄稿した文章をもとに編んだ小さな随筆集。加筆修正後、書き下ろしも多数加えました。子どものころから本の仕事に出合うまで、様々に関わった街のこと、ともに暮らすもののことなど、わたしという一本の木が育つまでのことについて。何度も推敲を重ね持てる力を注ぎ込みました。ぜひ読んでみてください。たくさんの挿画を寄せてくださった、坂本千明さんの版画もすばらしいです。
NEW!!〈わたし〉の声を探す──加藤典洋と黒人神学から学ぶ自己探求の読書
|〈わたし〉になるための読書(11)「MySCUE(マイスキュー)」 辻山良雄
大きな存在(「先生」)との葛藤を通じて、いかにして「じぶん」の言葉を見出すのか。日常から離れ、深く自分を見つめるための2冊を、今回はご紹介します。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて本を紹介しています。
偶数月の第四土曜日、23時8分頃から約2時間、店主・辻山が出演しています。コーナータイトルは「本の国から」。ミニコーナーが二つとおすすめ新刊4冊。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
本屋の時間の記事をもっと読む
本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

本と果物
むさしの
『











