2027年NHK大河ドラマの主人公・小栗忠順は、日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに派遣された幕府の使節団に目付として加わり、幕末史の表舞台に登場する。そこで見たものは議員たちの意見が自由に飛び交う議会であり、一瞬にして鉄から武器が生まれる近代産業だった。今回は『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』から、幕臣・小栗が見たアメリカについて、一部抜粋してお届けします。
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アメリカ人から見た小栗忠順
使節団の総員数は史料によって異なるのだが、正使新見に従った仙台藩士玉虫左太夫などが記録する「七十七人」が妥当のようである。「村垣日記」を中心に、使節団の動きを追ってみよう。なお、日にちはすべて太陰暦で記されているので、それに従った。
万延元年(一八六〇)一月十八日、築地の軍艦操練所に集まった使節団一行は夕方、小舟で品川沖に碇泊するアメリカの機走帆船(蒸気船だが、ふだんは石炭を節約するため帆走する)ポーハタン号(排水量三七六五トン)に乗り込む。「コモドール船将、出迎えて案内し、祝炮とて左右の大砲十七発打ちたり」と、ある。アメリカ士官は三百十二人だった。
品川沖を出たポーハタン号は二十二日朝、横浜を出て下田沖まで進み、北東に舵を切り、大圏航路に乗る。だが、いきなり暴風雨に見舞われ、使節団は船酔いに悩まされた。正副使もダウン、忠順も部屋から出られず、声も出せないほど苦しんだ。

二月二日に東経一八〇度を突破し、十四日にはオアフ島ホノルルに入港して、二十七日まで滞在した。七十七人のチョンマゲ姿の男たちの上陸に、現地人たちは興味津々、沢山の見物人が集まって来る。
ハワイがアメリカに統合される以前で、日本との国交はないが、忠順ら使節は二十六歳のハワイ国王カメハメハ四世に謁見した。王は「黒羅紗の筒袖にて米の風俗にかはらねど、金のたすきめきたるものを肩にかけり」といった装束だったと、村垣は記す。
普請役益頭駿次郎の従者として参加した加賀藩士佐野貞輔の、郷里の友人宛て書簡によるとハワイ国王との謁見時、新見・村垣は気後れ気味だったらしい。それを忠順は歯痒く思ったようで、ワシントンではどうなるかと心配しているようだったという(村上泰賢『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』平成二十二年)。
「村垣日記」には、正副使と公式な場の多くで行動を共にする忠順の名が頻出する。だが、忠順がどんな会話をし、どんな表情をしていたかなどは、ほとんど記されていない。それだけに佐野貞輔による観察は、貴重である。こうした忠順の態度は、ポーハタン号の海軍士官ジョンストン中尉の手記にある次の記述にも通じる(大坪「随想」)。
「小栗豊後守は、確かに一行の中でも最も敏腕な、最も実際的な人物であった。使節等が訪問せし諸処の官憲との正式交渉は、皆彼によってのみ処理されたのである」
ジョンストン中尉はよほど忠順に好意を抱いたようで、その風貌と役割につき次のように述べる。
「彼は四十位の年配で、小男であったが、骨相学上より判断すれば、優れた智的頭脳の人であった。少しばかりの痘痕のある彼の顔は、智力と聡明とで輝いていた。彼は以前将軍に昵近になる、宜き地位を占めていた。而して此度は此の冒険的な、先例なき旅行を試みつゝある一行の消息を、明白に将軍に報告するというのが其使命で、守の称号は、彼が使節の一人に任命された時、授けられたのであった」
幕臣出身のジャーナリスト福地源一郎は、『懐往事談』の中で正副使と忠順を比較して次のように評した。
「新見は奥の衆とて将軍家の左右に侍したる御小姓の出身、その人物は温厚の長者なれども決して良吏の才に非ず。村垣は純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其器に非ず。独り小栗は活発にして機敏の才に富たりしかば、三人中にて纔に此人ありしのみ」
これら第三者の評によると、三十九歳の正使、四十八歳の副使よりも年少である三十四歳の目付忠順の方が、堂々として存在感があったようである。
ゴールドラッシュの町に上陸する
三月九日朝、ポーハタン号はアメリカ西海岸に位置するサンフランシスコに到着した。十年ほど前からのゴールドラッシュで急速に発展中の、活気に満ちた交易都市である。ここで使節団は、二月二十六日に到着していた咸臨丸の乗組員たちと会う。
先述のように幕府は使節一行の護衛、荷物輸送などの名目で別に咸臨丸を渡航させていた。長崎でオランダ士官から伝習を受けさせた、海軍技術を実習させる目的もある。その中には軍艦奉行の木村摂津守喜毅、軍艦操練教授方頭取出役の勝海舟、木村の従者になった福沢諭吉、通訳の中浜万次郎などがいた。村垣は、
「異域(外国)にて御国(日本)の人に逢しは常の旅とはかはりていとなつかしく、とみに言葉も出ぬばかりなり」
と、感激している。彼らは初めて体験するアメリカ社会で四民平等に驚き、人民の選挙により大統領が選ばれることにまた驚く。
市長主催の使節の歓迎会も、盛大に催された。こうして使節団を乗せたポーハタン号は三月十八日に出帆し、咸臨丸は破損部分を修繕後の閏三月十九日、帰国の途につく。
ポーハタン号のパナマ入港は、閏三月五日夕方である。翌六日、五年前に竣工したパナマ鉄道の蒸気機関車に乗り換え、熱帯のパナマ地峡を横断し、大西洋側のアスピンウォールへ向かった。「村垣日記」には、汽車につき次のようにある。
「先ず一番さきにたつ車に蒸気を仕掛けて黒烟を発し、機関運転して車の四輪をめぐらす。(中略)凄まじき車の音して走り出したり。直ちに人家をはなれ次第に早くなれば、車の轟音、雷の鳴きはためく如く、左右を見れば三、四尺の間は草木もしまのよふに見へて、見とまらず。七、八間先を見れば、さのみ目のまはる程のこともなく、馬の走りを乗るが如し。更に咄しも聞へず、殺風景のもの也」
もちろん汽車などは初めて乗るのだから、忠順も驚いたことであろう。

つづいてアメリカ艦ロアノーク号に乗ってハンブトン・ローヅ港に至り、ここでフィラデルフィア号に移乗してポトマック河を溯った。ワシントンの海軍造船所に到着したのは、閏三月二十五日正午過ぎのことだった。
陸には男女が群集し、家の屋根に登って見物する者までいたという。千人の兵士が捧げ銃で二列に並び、軍楽隊の演奏が鳴り響く中、使節団は上陸する。その後厳重な警備のもと、使節たちはそれぞれ馬車に乗り、宿泊先であるウィラードホテルに向かう。
烏帽子姿の日本人、初めてホワイトハウスへ
閏三月二十八日正午、使節はホワイトハウスにおいて、六十八歳になる第十五代大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見する。彼らは初めて公式に、アメリカ大統領に面会した日本人になった。

「村垣日記」には正使新見が狩衣に鞘巻太刀、副使村垣が狩衣に毛抜形太刀、目付忠順が狩衣に鞘巻太刀といういで立ちで、おのおの烏帽子は萌黄の組掛糸鞋を用いたとある。新見から「うやうやしく亜墨利加(アメリカ)合衆国の大統領のみもとにまをす」で始まる国書を手渡された大統領は、次のように述べた。
「日本鎖国以来はじめて和親を結び、第一合衆国へ使節を立られし事、大統領はさらなり、国中の人民歓喜限なきよし、はた厚き御諚の趣、御国書賜はりし事ども、殊更に忝なきよし」
それから使節団は国交のある各国公使を歴訪し、夕方宿に帰って大統領についての感想などを話し合った。大統領らの服装が商売人のようで軽すぎると感じたようで、「村垣日記」では次のように不満を述べる。
「大統領は七十有余の老翁、白髪穏和にして威権(厳)もあり。されども商人も同じく黒羅紗の筒袖股引、何の餝もなく、太刀もなし。高官の人々とても、文官は皆同じ。武官はイポレツト(金にて造りたる総の如きもの両肩につけて、官の高下に寄りて長短有なり)を付、袖に金筋(是も三筋を第一とし、二筋、一筋と有り。合衆国は此の錺ばかり。西洋各国はえりに飾りもあり)有り、太刀も佩たり」
また、「大統領は総督にて、四年目ごとに国中の入札(選挙)にて定けるよし」と、国家のトップが国民によって選ばれることにもあらためて驚く。
ちなみにブキャナンはその後、奴隷制をめぐる南北の対立激化を阻止出来ず、ついに南北戦争へと突入させてしまった大統領として歴史に悪名が刻まれることになる。
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よりくわしい話が知りたい方は、『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』をぜひご覧ください。
小栗上野介 忘れられた幕末の異才

幕末動乱期、知られざる異才の幕臣がいた。33歳の若さで遣米使節に抜擢され、日本人初の世界一周を成し遂げた小栗上野介である。帰国後はその知見を活かし、幕末最大の建設事業「横須賀製鉄所」の創設に携わるなど、今につながる日本の近代国家としての礎を築いた。しかしながら小栗に関する史料は極めて少ない。彼ほど外交感覚や財政手腕に優れた官僚はいなかったにもかかわらず、なぜ斬首されたのか? 「逆賊」の濡れ衣は通説にすぎない? 明治という新時代を見ることなく非業の死を遂げた敗者の人生から辿る、もう一つの幕末史。











