まず長州藩を討って国内を平定し、次に攘夷を実行するという天皇の意志を実現するためにも、幕臣の小栗忠順は横浜・横須賀製鉄所の建造を通じて、幕府とフランスの関係を強化してゆく。はたして、忠順が目指したのは、どのような日本だったのか。今回は『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』から一部抜粋してお届けします。
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幕府にもまだ夢があった──製鉄所計画の始まり
横須賀製鉄所の建造といえば、鋤雲の回顧録のせいで忠順のスタンドプレーのように言われる。だが、忠順もまた幕府官僚のひとりであり、巨大組織の中の一員であった。
安達裕之「猶ほ土蔵附売家の栄誉を残す可し─横須賀製鉄所の創立─」(『海事史研究64号』平成十九年。以下、安達「横須賀」と称す)は、鋤雲の回顧録の問題点を指摘する。この論文に基づきながら、建設の経緯を辿ってみたい。
まず、安達「横須賀」は元治元年(一八六四)に計画された製鉄所と造船所の設立が、老中水野忠精政権の富国策の中で進められたことを確認する。文久二年(一八六二)前半、老中久世広周・安藤信正による政権が倒れた後、実権を握ったのが山形藩主の水野忠精だった。文久二年三月十五日より慶応二年(一八六六)六月十九日まで、老中を務めている。天保三年(一八三二)生まれというから、忠順よりも五歳若い。
水野政権はアメリカ・ウォルシュ商会から購入して長崎に届いた機械と、佐賀藩から献納された機械を江戸近傍に移し、製鉄所を設けることとする。元治元年(一八六四)九月、その御用掛に、若年寄酒井忠毗をリーダーとし、勘定奉行の忠順・勘定吟味役小野友五郎・目付山口直毅・軍艦奉行並矢田堀鴻(後に木下謹吾に交代)・浅野氏祐が選ばれた。忠順以下の五人は討議を重ねて方策を定め、酒井の承諾を得て実行に移してゆく。

御用掛は九月三十日までには建設場所を横須賀湾か貉ケ谷湾に絞っていた。それは幕府が江戸近海に大艦修復場の建設を決めた際、測量に加わっていた小野の影響が大きいと考えられる。その際、機械据付けを依頼する外国人を探すため、鋤雲が起用された。そして十一月三日には、忠順とフランス公使ロッシュが会談する。
安達「横須賀」は、忠順が鋤雲にフランス人による機械据付けを持ちかけたのが先で、その後で翔鶴丸の修理を打診した可能性が大きいとする。そして「江戸近傍に製鉄所の設立を決めたのは老中の水野であって、小栗は幕府の決定を実現するため任命された酒井を長とする六人から成る御用掛の一人にすぎない」と評す。また、佐賀藩献納の機械は横浜にも横須賀にも据え付けられた形跡がなく、「どうやら佐賀藩主の芳志は無に帰したようである」とも言う。
小栗忠順がフランスを選んだ理由
鋤雲が言うには、忠順は海外諸国を「我が師」と考えていたが、国によっては傑傲不遜で、日本が不慣れなのをいいことに欺き、あくまで利を貪ろうとするから危険だった。イギリスは隣国中国におけるアヘン戦争以来、油断が出来ない。ロシアも以前から樺太や対馬の問題もあり、気を許せない。アメリカは南北戦争が起こっており、日本への協力は難しそうだ。
忠順はフランスは謙虚で、他国に比べて信頼出来そうなので、ドック建造を託そうと言う。

日本とフランスとの間に修好通商条約が締結されたのは安政五年(一八五八)九月三日のことで、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリスに続く、いわゆる「安政の五カ国条約」を結んだ国のひとつである。初代駐日総領事・公使はギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールで、元治元年(一八六四)三月二十二日に二代目となる五十五歳のロッシュが着任した。
イギリスより遅れて産業革命を成し遂げたフランスのナポレオン三世は、東洋に市場開拓のための盟邦国を作るよう、ロッシュに指示していた。日本語が話せないロッシュの通訳を務めたのが、鋤雲と旧知の間柄だったカションである。幕府に見切りをつけて薩長に接近するイギリスに対抗するかのように、フランスは幕府の劣勢を挽回することで、権益を得ようとした。
ロッシュと忠順を最初に結び付けたのは、蚕種との説がある。
八月十一日、ロッシュの意を受けたカションは、幕府に蚕の種紙一万枚を急きょ調達出来ぬかと願い出た。その二日後、忠順が三度目の勘定奉行に就任している。結局、幕府は五千枚をかき集めて売り渡すのだが、その実務を担当したのが北関東・陸奥・信濃の養蚕地帯の内情に通じていた忠順ではないかというのだ。
当時フランス南部では蚕に微粒子病が流行して生糸の生産量が激減し、絹織物産業が大打撃を受けていた。ロッシュは幕府の好意により危機を脱することが出来たと、書簡で感謝を述べている(高橋『小栗』)。

また、長年腰と背の激しい痛みに悩まされていたロッシュを、忠順と親交のあった漢方医浅田宗伯が診察し、原因を突き止め、漢方と鍼をもって一週間で治してしまった。ロッシュは大いに驚き、感謝し、浅田の名医ぶりはフランスの新聞にまで紹介された。浅田はナポレオン三世から時計二個と絨毯三巻を、幕府からは日仏友好に貢献した功により白銀二十枚を与えられた(同前)。ちなみに浅田は、現在の株式会社浅田飴を明治二十年(一八八七)に創業したことでも知られる。
ロッシュが示した「勝ち筋」
『海軍歴史』には、忠順と鋤雲がロッシュに「製鉄所起立方案を諮詢(問い尋ねて相談)」したとある。後日作られた約定書は、フランス語では造船所(Arsenal)とするが、幕府訳は製鉄所・船廠となっている。
幕府からの問いに対し、ロッシュは横浜に滞在していた水師提督ジョーレスらに諮り、次のように回答した。
ロッシュは造船所は「海軍興張の基礎」なので、簡単安易に方策を決めてはならないと言う。まずは小工場をひとつ横浜に設け、目下の艦船修理を行い、日本人に西洋の工業を習得させることを勧めた。
小工場を造るつもりなら、横浜に碇泊している軍艦の一等蒸気士官ジンソライおよび士官ドロートルを、その任に充てようとも言った。これは先述のとおり、横浜製鉄所として実現することになる。
また、ロッシュは横浜港に碇泊するセミラミス号のような「堅艦」が造れるような造船所を、幕府が望んでいると知った。ロッシュは同艦は竣成以来八年、いまだ毀損していないが、それは主任技師セネデールの技量に長じているからだと説明し、日本もまた優秀な技師を得なければとする。そのため上海で砲艦築造に従事する、海軍の大技師フランソワ・ヴェルニーの招聘を勧めた。

元治元年十一月十日、老中の水野忠精・阿部正外・諏訪忠誠は連署の奉書で、ロッシュに製鉄所設立と器械製造を委任する士官の斡旋を正式に依頼する。
ほぼ時を同じくして、オランダ士官から海軍について学んだ勝海舟が軍艦奉行を罷免された。また、十月十八日、石川島造船所の機械購入のため、オランダに派遣された軍艦頭取肥田浜五郎は、現地に着くと間もなく御役御免となり、帰国させられる。
新造船所は、横浜居留地の近くに造られることになった。ロッシュは十一月十二日、三浦半島長浦湾の実地見分を申し出て、幕府軍艦順動丸を使い二十六日に実施する。フランス側はロッシュの他、水師提督ジョーレス、セミラミス号の艦長士官ら、幕府側は忠順・栗本鋤雲・軍艦奉行木下謹吾および浅野氏祐らが参加した。
だが、長浦湾は水深が浅い部分があったため、ロッシュは不適当と判断する。つづいて隣の横須賀湾を測量したところ、湾形は曲折して深い。地形も要害となっており、フランス第一の軍港であるツーロン港を彷彿させる。こうして造船所建設は横須賀が適当とされ、本格的な調査が始まった(『海軍歴史』)。もっとも、安達「横須賀」によれば九月中には御用掛は貉ケ谷か横須賀に決めていたようである。
同じ頃、西日本では朝敵となった長州藩が京都進発の責任者として三家老を切腹させるなどして恭順 謝罪の意を示したため、長州征討は一応の不戦解兵で終わった。ところが、これを不満とする高杉晋作は十二月十五日、下関で挙兵。内戦のすえ晋作らが勝利して政権を奪い、藩是は一転して「武備恭順」に統一された。朝廷・幕府に対して恭順を装いながらも、裏では実力を蓄え、長州藩の「正義」が認められなければ、戦争も辞さないとの覚悟である。
幕府が造船所建設を急いだのは、次の長州との戦争を想定したからである。ペリー来航以来、外敵に備えるはずが、長州の暴走により再び国内の敵をターゲットにせざるをえなくなった。一八六五年一月十七日付のロッシュの本国への第二十五報告には、「幕府は長州征伐のために、この造船所が必要だ」と記されている(『陸軍創設史』)。
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よりくわしい話が知りたい方は、『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』をぜひご覧ください。
小栗上野介 忘れられた幕末の異才

幕末動乱期、知られざる異才の幕臣がいた。33歳の若さで遣米使節に抜擢され、日本人初の世界一周を成し遂げた小栗上野介である。帰国後はその知見を活かし、幕末最大の建設事業「横須賀製鉄所」の創設に携わるなど、今につながる日本の近代国家としての礎を築いた。しかしながら小栗に関する史料は極めて少ない。彼ほど外交感覚や財政手腕に優れた官僚はいなかったにもかかわらず、なぜ斬首されたのか? 「逆賊」の濡れ衣は通説にすぎない? 明治という新時代を見ることなく非業の死を遂げた敗者の人生から辿る、もう一つの幕末史。











