開国した幕府の権威は「天皇」の政治化により、みるみるうちに失墜した。開国通商を貫き、徳川を戴く近代国家を目指す小栗忠順は、たとえ外国の力を借りてでも抵抗勢力を排除し、強硬策を推し進めようとする。しかしそれは、外国の内政干渉を招きかねない、危険な選択でもあった。今回は『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』から一部抜粋してお届けします。
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「小栗を斬れ」の脅迫状
幕府はイギリス・フランスの援助を受けるべきだと強硬に唱えた旗本とは、誰か。
幕末の肥後藩が収集した情報書のひとつ、「或人江戸時勢探索報知之事」(『改訂肥後藩国事史料巻三』昭和七年)の中に、それが「小栗忠順」だったことを窺わせる記述がある。

情報書によると文久三年(一八六三)四月中旬、江戸城において評定があり、兵一千人、大砲八門、騎馬百匹で京都に乗り込んで将軍家茂を迎え、和親交易の勅を申し入れることが決まったので、各人に上京の命が出たのだという。ところが同月下旬、にわかに中止となった。それは江戸の日本橋に、次のようなテロ予告の張札が出されたことと関係する。
「このたび小栗豊後守(忠順)はじめ容易ならざるの事ども思い立ち候。右一条改心致さずば、浪士の手を煩わさず、このたび決死の士、誅罰を行うべき」
こうして「容易ならざる」企ての首謀者である忠順・京極高朗・永井五右衛門が罷免された。これは文久三年四月に辞職したとする、「任免譜」(阿部『小栗』)の記述とも符節を合する。また、水戸藩の鈴木大の日記四月二十六日条には、
「小栗らは関東の威を以て天子をひしぎ付け候くらいのつもりにて、この間、歩兵御登りなすも、全く小栗などの方の論より出来候事なり。右ゆえ、それぞれ御処置仰せ付けられ候御様子なり」
と、忠順が武力を背景に将軍家茂を奪い、孝明天皇に開国を認めさせようとして、処分されたことが記されている(『増訂明治維新の国際的環境 分冊1』)。
無役となったものの、忠順は諦めなかった。同じく肥後藩が集めた情報書の中に、次のような記述がある(『改訂肥後藩国事史料巻三』)。
「小栗豊後守御役御免後、慎みもこれ無く、竊かに横浜へ徴行致し、浅野伊賀守(氏祐)を慫慂て在府にて陸軍所御軍艦懸り兼歩頭藤沢備後守・同大炮頭塚原治右衛門・同騎兵頭倉橋育之助等を相語らひ、再び旧悪を企て候由承り候」
忠順は反省もせず、神奈川奉行の浅野や陸軍幹部の旗本らと、ひそかに謀議を重ねているというのだ。さらに、生麦事件の賠償金を払った上で、次のように企んでいたという。
「皇国の事情委曲夷英に白状致し、時宜に依っては英夷の武威を借りたき旨、相談候由承り申し候」
これは、イギリス・フランスの軍事援助であることは言うまでもないが、実現はしなかった。
もっとも、西洋列強が見返りなしで援助を行うとは考え難い。
先年の対馬の問題でロシアを軍事的圧力で追い払ったイギリスが、直接的には日本に何も求めなかったという成功体験があったからかも知れない。この点、忠順はどう考えていたのかを知ることができる史料が見当たらないのは残念ではある。忠順が生来持っている、坊ちゃん育ち特有の「甘さ」のようなものが感じられなくもない。
坂本龍馬が狙った幕臣──「日本を洗濯」の真意とは
西洋からの軍事援助については「志士」たちの方が、よほどシビアだった。
たとえば長州の吉田松陰などは、古代ギリシア人の著作「イソップ物語」を例に挙げて西洋人の狡猾さを説く。ちなみに「イソップ物語」は日本には戦国時代に入って来て、日本風にアレンジされ、江戸時代には『伊曽保物語』と題して絵草子にもなり読まれていた。
「イソップ物語」中の「馬鹿同遊」では、のんびりとした馬の暮らしを邪魔する鹿を、人間が知恵を与えて退治してくれる話。人間は感謝する馬に食事と藁を与え、家畜にしてしまう。あるいは「斧頭柄を求むる」では、斧の柄を探していた若い男のために、親切な森の木々がトネリコの木を一本与える。ところが新しい柄を斧に取り付けた若い男は、それで木々をすべて切ってしまう。

このように支援を装って他人を支配したり、親切心を逆手に取って利益を得たりするのが西洋人だと、松陰は見る。「西洋は仁なり」と言う者がいるが、「伊娑菩喩言(イソップ物語)」を読めば「茫然自失」するだろうとも、松陰は言う(「伊姿菩喩言に跋す」『吉田松陰全集第四巻』昭和十三年)。
このような警戒心を抱く「志士」たちの間に、忠順が西洋の軍事援助を求めたとの情報が流れたのだ。そのため忠順は日本を西洋に売る憎むべき存在であると、「志士」たちは認識するようになる。
軍艦奉行並勝海舟のもとで海軍を学ぶ、土佐の坂本龍馬も忠順を敵視したひとりのようだ。
龍馬が文久三年(一八六三)六月二十九日、故郷の姉乙女に宛てた書簡(一坂太郎・知野文哉『坂本龍馬全書簡』令和八年)では、奉勅攘夷を掲げる長州藩が下関で砲撃した外国艦を、「夷人」と「内通」した幕府の「姦吏」が江戸で修復していると聞き、憤慨している。長州藩と戦う西洋列強との間に、ひそかに協力関係を築く「姦吏」が忠順らであることは、先に見た四月下旬のテロ予告などを見ても明らかであろう。龍馬はその「姦吏」を、志を同じくする大名や旗本と共に討つ計画があると知らせる。ここで有名な、
「姦吏を一事に軍いたし、打ち殺し、日本を今一度せんたくいたし申し候事にいたすべくとの神願にて候」
との一節が出て来る。この時期の龍馬と最も近い大名は、かつて忠順と奉勅攘夷をめぐり激論した元越前藩主で政事総裁職の松平慶永だった。越前藩から龍馬には、仕官の話もあったという。越前藩では四千の兵を上京させ、慶永が主導して大会議を開き、開国の国是を確立する計画が進んでいた。忠順のような西洋列強への接近は危険視されたのだろう。
もっとも、龍馬が忠順を討つことはなかった。まず七月二十三日、越前藩論が一転して上京は中止となった。八月十八日には京都で政変が起こり、龍馬らにも土佐藩から帰還命令が出たりして、それどころではなくなってゆく。
そして忠順の存在も、しばらくは表舞台から消える。

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よりくわしい話が知りたい方は、『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』をぜひご覧ください。
小栗上野介 忘れられた幕末の異才

幕末動乱期、知られざる異才の幕臣がいた。33歳の若さで遣米使節に抜擢され、日本人初の世界一周を成し遂げた小栗上野介である。帰国後はその知見を活かし、幕末最大の建設事業「横須賀製鉄所」の創設に携わるなど、今につながる日本の近代国家としての礎を築いた。しかしながら小栗に関する史料は極めて少ない。彼ほど外交感覚や財政手腕に優れた官僚はいなかったにもかかわらず、なぜ斬首されたのか? 「逆賊」の濡れ衣は通説にすぎない? 明治という新時代を見ることなく非業の死を遂げた敗者の人生から辿る、もう一つの幕末史。











