小栗忠順らがアメリカにいた十カ月ほどの間に、日本の政情は大きく変わっていた。挙国一致で西洋に倣った近代国家を築かねばならない時に、急進的な尊王攘夷論が大流行を始めたのである。今回は、そんな激動の時代に迫る『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』から一部抜粋してお届けします。
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桜田門外の変──「テロ」が国を揺らした日
忠順ら遣米使節団が日本を発ち、二カ月ほど経った万延元年(一八六〇)三月三日のこと。幕閣の頂点に君臨する大老井伊直弼が、水戸浪士らにより暗殺された。いわゆる「桜田門外の変」である。欧米の新聞は、
「このテロは新たな政権抗争の始まりなのだろうか」
「この国の政治状況は不安定で、政治家の指導力は弱まっている」
などと報じ、注目したという。

だが、「村垣日記」によれば日本の情報はアメリカではなかなか得られなかった。遣米使節団が「桜田門外の変」の報に接したのは意外と遅くて帰国途中の九月十二日、香港においてだったようだ。オランダ人から「江都(江戸)の平穏にして大老職病卒と、咸臨丸帰帆」といった情報を得たとある。
水戸藩をはじめとする抵抗勢力を厳しく弾圧した「安政の大獄」に対する反撃が、「桜田門外の変」だった。水戸藩では下級武士を中心とする急進派が江戸に走り、薩摩藩の大久保利通(一蔵)ら誠忠組と結び付く。彼らは東西呼応して挙兵し、勅を得て幕府改革を進めようと企てた。ところが薩摩藩の同志は藩主島津茂久(忠義)に諭され、計画から脱落してゆく。
水戸の関鉄之助ら十七名に薩摩の有村次左衛門を加えた計十八名は万延元年(一八六〇)三月三日午前九時頃、登城する大老井伊の駕籠を桜田門外で待ち構え、襲撃した。
この日の朝は雪が降っており、井伊の家臣百二十名はみな雨合羽を着て、刀には柄袋を付けていた。そのため即座の応戦が出来ず、抜刀出来ないまま次々と水戸浪士らに斬られてしまった。

井伊の首を取ったのは、唯一の薩摩人だった有村だが、井伊の家臣に背後から斬られた。重傷に耐えかねた有村は、その場で自決する。浪士たちもひとりが闘死、三名が負傷して自決。残りの浪士の大半も近くの大名屋敷に自首したり、逃走するも捕らえられたりして、後日伝馬町獄で斬首された。
浪士たちが暗殺の大義名分を記した「斬奸趣意書」によれば、井伊は外国の「虚喝」に屈して条約を結んだとし、「神州古来の武威を穢し、国体を辱しめ」たと、非難する。このような「国賊」を、これ以上放置しては外国人に好き勝手にされるので、天に代わって殺す(天誅)のだと言う。
もっとも、水戸浪士らに幕府打倒の考えはない。幕府内での、主導権争いである。だが、大老が衆人の見守る前で首を討たれるなど、前代未聞の出来事だ。幕府の面目は丸つぶれとなり、その衰退を加速させてしまう。
つづいて浪士たちの別動隊は京都であらためて勅を手に入れ、薩摩の同志と共に幕府改革を実行しようとした。だが、リーダー格だった水戸の高橋多一郎と息子の庄左衛門が四月二十三日、捕吏に追い詰められて大坂の四天王寺で自決するなどして、改革計画は頓挫する。
井伊に続き、幕閣の主導権を握ったのは老中安藤信正(磐城平藩主)だった。閏三月、安藤は久世広周(関宿藩主)を老中に再任し、幕府権威の立て直しをはかる。「久世・安藤政権」の幕開けである。
もはや天皇の存在を無視して、政治を行うことは難しかった。そこで安藤は朝廷(公)の威を借り、幕府(武)権威の強化を考える。公武合体の具体策として、大老井伊以来の懸案でもあった孝明天皇の妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁計画が進められた。最初天皇は、幕府からの申し入れを拒んだ。しかし最終的には攘夷を実行するとの条件付きで、和宮降嫁を承認した。
「天皇を敬い、外国を追い払え」の始まり
大老井伊を暗殺した浪士たちの「斬奸趣意書」には「神州」「国体」「国賊」「天誅」という、以後の日本社会に頻出することになる単語が出揃っている。これは幕末になって大流行した、尊王攘夷(尊攘)論と深く係わる。
尊攘論の発祥は、水戸藩(三十五万石)である。初代水戸藩主は徳川家康の末子(十一子)徳川頼房で、尾張・紀州と共に徳川御三家のひとつだった。
徳川幕府体制が盤石になるにつれて「文治主義」が主流となり、自国の歴史への関心が高まった。そうした中で、幕府の儒官林家は編年体の『本朝通鑑』を編纂する。これを意識した二代水戸藩主徳川光圀(義公)は明暦三年(一六五七)、『大日本史』編纂に着手した。初代神武天皇から百代後小松天皇までの、紀伝体の史書である。計三百九十七巻から成る『大日本史』が完成したのは、実に二百五十年を経た明治三十九年(一九〇六)のことだった。そして、編纂過程の中で水戸学が生まれる。
『大日本史』は日本の歴史に、天皇という一本の絶対的な背骨を通す。源氏、北条、足利、徳川など、どのような権力者が現れようと日本を統治し、しかも世界の頂点に位置するのは万世一系の天皇だとする。世界を照らし続ける太陽神の子孫である天皇を戴く日本民族こそが、世界一優れているのだと言う。これが「尊王」である。

十九世紀になると西洋列強の船が日本近海でたびたび目撃されるようになった。このため、太平洋に面して百三十キロメートルもの長い海岸線を持つ水戸藩では、緊張感が高まる。文政七年(一八二四)五月二十八日にはイギリスの捕鯨船二艘が着岸して、十二人の船員が食料を求め、藩領北端の大津浜に上陸するといった事件も起こる。武士たちは西洋列強の真の目的は侵略にあると見て、その排撃を叫んだ。これが「攘夷」である。
幕末の藩主徳川斉昭は国体論の「尊王」と国防論の「攘夷」を合わせて「尊王攘夷(尊攘)」と呼び、後期水戸学の柱とした。それが、水戸から拡散して全国規模で政治的イデオロギーとして広まったのは、孝明天皇が開国に賛意を示さなかったことが大きい。幕府はすでに外圧に抗せないとの見方が広がり、天皇を頂点とする国家の再編を望む者たちが各地に現れる。
水戸発の急進的な尊攘論は、やがて長州や薩摩に辿り着き、幕府否定の大義名分となってゆく。それと敵対した井伊直弼は後世、国家ぐるみで「明治維新」という近代化を阻む「悪役」に仕立てられてゆく。
だが、幕府旗本出身のジャーナリスト戸川残花は「改革的政治家を以て世に現れた」のが水野忠邦・井伊直弼であると高く評価し、忠順は二人の「性行に近き所あり」とする(「小栗上野介」『旧幕府第四巻第七号』明治三十三年)。つづいて戸川は、次のようにも言う。
「幕末若し井伊元老と共に水戸光圀の如き幼君を補佐する譜代一門の英主ありて上州(忠順)に牙籌(そろばん)を取らしめなば、戊辰の如き汚辱はあらざりしならんか」(「小栗上野介(承前)」『旧幕府第四巻第八号』明治三十三年)
門閥や家柄を重んじた忠順を、大老井伊に連なるタイプの人物で、しかも経済通だったと、戸川は誇らしげに語る。彼らの封建的な思考は、多くの旗本たちにとり、決して否定されるものではなかった。
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よりくわしい話が知りたい方は、『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』をぜひご覧ください。
小栗上野介 忘れられた幕末の異才

幕末動乱期、知られざる異才の幕臣がいた。33歳の若さで遣米使節に抜擢され、日本人初の世界一周を成し遂げた小栗上野介である。帰国後はその知見を活かし、幕末最大の建設事業「横須賀製鉄所」の創設に携わるなど、今につながる日本の近代国家としての礎を築いた。しかしながら小栗に関する史料は極めて少ない。彼ほど外交感覚や財政手腕に優れた官僚はいなかったにもかかわらず、なぜ斬首されたのか? 「逆賊」の濡れ衣は通説にすぎない? 明治という新時代を見ることなく非業の死を遂げた敗者の人生から辿る、もう一つの幕末史。











