2027年のNHK大河は「逆賊の幕臣」。松坂桃李さん演じる幕臣・小栗忠順が主人公のドラマです。無残な死を遂げたことで知られる小栗ですが、彼はどのような生い立ちだったのか?
徳川家康の危機を救った名門の血を引き、徳川への絶対的忠誠を誓うエリート旗本――。ペリー来航以前から西洋列強の影に揺れ、対外政策が二転三転していた幕末の日本。その激動のただ中に生まれたのが、のちに幕府の近代化を牽引する小栗忠順です。
今回は、歴史家の一坂太郎さんによる9月刊の新刊『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』から一部抜粋してお届けします。
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黒船来航の前に、日本はすでに揺れていた
いわゆる鎖国を約二百年続けて来た徳川幕府は、西洋列強の中ではオランダに限り長崎の出島で交流し、海外情報を得ていた。ところが十八世紀の終わり頃から産業革命に成功し、資本主義を確立した西洋列強がアジアに進出して、日本に通商を求めるようになる。ロシア艦やイギリス艦が時に武力に訴えたため、日本では西洋列強が交易を口実に侵略を企てているとの見方が広まり、幕府は文政八年(一八二五)、それまでの「薪水給与令」を強硬策の「異国船打払令」に改めた。
それに従い天保八年(一八三七)七月、浦賀沖に来たアメリカ商船モリソン号を砲撃したところ、同船には日本人漂流民が乗っていたため、問題が大きくなる。国内からも、国際的信用を失うといった非難の声が起こった。これに対し、幕府目付の鳥居耀蔵は天保十年、洋学者を弾圧し、高野長英や渡辺崋山などを厳しく罰する(「蛮社の獄」)。

ところが市場獲得を目指すイギリスが圧倒的武力をもって清朝中国を打ち負かしたアヘン戦争の情報が伝わるや、幕府は大いに動揺した。穏便に解決するため、天保十三年には遭難船に限り薪水や食料などの補給を認める「(天保の)薪水給与令」に改めた。
このように対外方針は二転三転したが、外圧を除くためには、西洋の技術を導入することが必須であることは、誰の目にも明らかだった。
天保十二年、幕府はオランダ人から西洋砲術を学んだ長崎の高島秋帆を江戸に呼び、武蔵国徳丸ケ原(現在の東京都板橋区)で洋式砲術の調練を行わせる。韮山代官の江川太郎左衛門や幕臣の下曽根金三郎なども秋帆に師事して新知識を吸収した。だが、反感を抱く者もいたため、秋帆は十数年の長きにわたり獄につながれることになる。
「徳川のために生きる」という小栗家のルーツ
小栗家は清和源氏の流れをくみ、本姓を「松平」といい、三河を本国とする。徳川家の先祖とは一門で、生粋の三河武士の血を引く。大名旗本の家譜で任免の基本となった『寛政重修諸家譜』によれば、小栗家の初代は松平太郎左衛門信吉とある。四代の小栗忠政は小栗家始祖とされ、十三歳の時から徳川家康に仕えた。

元亀元年(一五七〇)の姉川合戦で突如、敵兵が家康の陣地を襲撃した際、十五歳の忠政は信国の槍をとり、敵と渡り合って家康の危機を救った。家康は「忠政が心ききたる働きは一番槍にも等しかるべし」と褒め、その信国の名槍を与える。
以後忠政はつねに白地に黒く五輪塔を描いた小旗を背に翻し、三方ヶ原や長篠の合戦などでも特別の武勲を立てる。「又一番か」と評判になる忠政に、家康は「又一」の名を与えた。こうして小栗家では代々当主が「又一」の名を襲名するようになる。忠順も「又一忠順」と名乗っていた。
大坂夏の陣で負傷した忠政は元和二年(一六一六)九月十八日、江戸において六十一歳で他界し、遺言により大宮在大威村(現在の埼玉県さいたま市)の普門院(曹洞宗)に葬られた。
それから二百数十年後、忠政をあつく敬慕していた忠順は、どれだけ多忙であっても、九月十八日の祥月命日には墓参を欠かさなかったという。その際は駕籠ではなく、江戸から駿馬に乗りやって来た。あるいは、墓前に一対の石燈籠を献じている(阿部道山『海軍の先駆者 小栗上野介正伝』昭和十六年。以下、阿部『小栗』と称す)。
こうした忠順の自家に対する強い誇り、徳川に対する絶対的な忠誠心は生涯変わることがなかった。
エリート旗本の家に生まれた忠順
徳川将軍家の総石高は約二千六百万石で、うち四百二十万石は直轄領(天領)とし、残りを家臣たちに分配した。
徳川幕府政権での小栗家の家格は、旗本である。旗本とは徳川将軍家に直接属する家臣団のうち一万石以下、家格は御目見以上である。享保七年(一七二二)の調査によれば旗本の総数は約五千二百人で、うち百石以上五百石以下が約六十パーセントを占めていた。
よく、「旗本八万騎」と言われるのは旗本はじめ、御家人(一万石以下の御目見以下。十八世紀はじめには約一万七千人いた)や各旗本の家臣たち(徳川将軍家からすれば陪臣)を合わせた数と考えられ、それが徳川将軍家が戦時に動員可能な人数だった。
小栗家は江戸城の東に位置する高台、駿河台に屋敷を構えていた。徳川の牙城だった駿河から移って来た多くの武士が住んでいたのが、地名の由来だという(異説あり)。現在の千代田区神田駿河台1丁目8-2、東京YWCA会館が建つあたりで、近年では甲賀通りに面して「小栗上野介ここに生まれる」などと記す、説明板が設けられている。
旗本の収入源である給地は、小栗家の場合は関東の上野・下野・下総・上総各地に計二千五百石の知行地を与えられていたから、経済的には比較的恵まれていたと言えよう。江戸開城後、忠順が退いた権田村も、その一部である。
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よりくわしい話が知りたい方は、『小栗上野介 忘れられた幕末の異才』をぜひご覧ください。本書は、9月30日(水)発売です!
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小栗上野介 忘れられた幕末の異才

幕末動乱期、知られざる異才の幕臣がいた。33歳の若さで遣米使節に抜擢され、日本人初の世界一周を成し遂げた小栗上野介である。帰国後はその知見を活かし、幕末最大の建設事業「横須賀製鉄所」の創設に携わるなど、今につながる日本の近代国家としての礎を築いた。しかしながら小栗に関する史料は極めて少ない。彼ほど外交感覚や財政手腕に優れた官僚はいなかったにもかかわらず、なぜ斬首されたのか? 「逆賊」の濡れ衣は通説にすぎない? 明治という新時代を見ることなく非業の死を遂げた敗者の人生から辿る、もう一つの幕末史。
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