現役の医学部教授である大塚篤司先生が、大学病院の”教授選”を舞台に書いた「リアル人生ゲーム」!
「ここまで書いていいの?」と”界隈”を震え上がらせている小説が、文庫になって登場です。文庫版のタイトルは『教授選クエスト ~黒い善意と白い悪意~』。(単行本時のタイトル『白い巨塔が真っ黒だった件』から改題)
文庫版の本文を公開です。助けた同僚の、別の顔を知ってしまう”大塚くん”はーー。
* * *
「大塚さん」
年下で薬学部卒の小出は、大学院のときからぼくのことを大塚先生ではなく大塚さんと呼ぶ。
卒業後、東京の製薬会社に勤めていた小出は、出張のために京都に戻っており、鴨川沿いの居酒屋で久しぶりに一杯やることになっていた。
「前野先生の話をしてもしんどくなりませんか?」
ぼくが鬱で苦しんでいたのを知っていた小出は、ぼくの反応をまずは確認した。
「うん、話くらいは大丈夫だけど、結局、前野先生クビになってないね」「そうなんすよ」
小出は枝豆をつまんで口に放り込んだ。
「良いところまでいったんですけど、厳重注意で終わりました」
「あの暴言をさ、ハラスメント委員会の人が聞いたらクビになると思ったけどなあ」
そう言ってぼくはビールを口に運ぶ。
「それがですね、あの録音は、前野教授が嵌(は)められたことになってるんです」
「どういうこと?」
「森田さんのこと覚えてますか? 教授秘書やってた」
「もちろん」
「森田さん、パワハラの証言で委員会に呼ばれたんです。本当に前野研究室でパワハラがあったのか証言を取るためです。前野先生はメールではなにも言わないじゃないですか。文章で証拠に残るようなことはしないというか」
確かに前野からのメールに、人格否定や罵倒まがいのことが書かれていたことは一度もなかった。なにかあれば「部屋に来るように」と直接声をかけられた。そのやり口に、ぼくは鬱になった後も、何度も悔しさで涙を流した。万が一、彼の葬式に声がかかるようなことがあれば、ぼくは嫌味でキティちゃんの電報を送りつけかねない。もちろん、葬式でそんな不謹慎なことはしないし、使われるキティちゃん本人もとんだ迷惑だろう。
「森田さんは学生に対する前野先生の暴言を直接は聞いてません。ぼくらへのパワハラは森田さんが帰った後に行われましたからね。ただ、テープレコーダーは聞いてもらったので、”アイツの罵倒”は知っていました」

ぼくは、自分が初めて前野に怒鳴られたときのことを思い出し、再び息ができなくなる感覚に陥った。いつまでこの苦しみを抱えて生きていかなくてはいけないのか。
「びっくりしたことに、森田さんはハラスメント委員会でパワハラはなかったと言ったみたいなんです」
「なんで?」
「ぼくも、なんで? と思いました。森田さんが言うには、あのテープレコーダーはぼくがわざと前野教授を怒らせて録音したものだと。大塚さんが辞めてしまったことに対する逆恨みじゃないかと証言したみたいなんです」
「いやいや、おかしいだろ」
「そう、おかしいんです」
「だって、森田さん、前野先生からセクハラを受けてたじゃん」
ぼくは少し大きな声を出したことに自分でもびっくりして、あたりを見回した。
幸い、周りの客も各々の会話で盛り上がり、”セクハラ”という言葉を気にしている人は誰もいなかった。
「それがですね、森田さんは教授の愛人みたいなんです」
「そんな馬鹿な」ぼくは吐き捨てるように言った。
「森田さんが読者モデルをやってるって噂、ありましたよね? あの話って、隣の研究室の大学院生が、雑誌に載ってた森田さんをたまたま見つけて分かったことなんですけどね」
そう言って小出は枝豆を指先でつまみだした。
「そいつが、森田さんと前野教授のデート現場を目撃したって言うんです」
「それはまた森田さんが断り切れず、じゃなくて?」
ぼくはどうしても、森田がぼくらを裏切ったとは信じられなかった。
「滋賀にある有名なケーキ屋さんに二人が一緒にいたらしいんです。わざわざそんなところまで行くなんておかしくありませんか?」
ここで小出はため息をついた。
「それだけじゃ分からんよ」
「はい。それだけじゃありません」
小出は左右の手でしばらく弄(もてあそ)んでいた枝豆を、口に放り込んだ。
「ぼく見たんです」
「なにを?」
「二人がラブホテルから出てくるところを」

「まじで?」
「鴨川沿いを大学から下っていくと、四条を越えたあたりの左手にラブホあるの知ってますよね?」
さも当たり前のように小出が聞くものだから、ぼくは分かっているような分かっていないような曖昧な表情を作った。川端通の脇にある、看板がトウカエデの木に見え隠れするラブホテルが頭に浮かんだ。一風変わった名前のホテル「そういえば。」はここらへんでは有名であった。「川端通を車で運転してたらですね、ホテルから二人が出てきたんです」
「ホテルの出入り口は通りから見れないだろう」
「はい、よく知ってますね」
そう言って小出はニヤッと笑った。「なんだ知ってるじゃん」と口にする小出を無視して、ぼくは話を進めた。
「大通りから出入り口が見えるラブホなんて普通はないよ。たまたまホテル方面から二人が出てきただけじゃないの?」
「はい、大塚さんの言う可能性は否定できません」
小出はあっさり認めた。
「だから確認しました」
「は? 誰に?」
「二人にです」
「お前すごいな」
テープレコーダーの件といい、ハラスメント委員会に訴えた件といい、小出は勇気があって行動力もある。でも、本人たちに確認するなんてちょっと無謀だ。「ぼくはハラスメント委員会の対応に腹が立ったのですが、就活も始まっていたのでこれ以上は追及しませんでした。大学院を無事に卒業さえできればいいですからね。もし、前野先生がまた嫌がらせをしてきたら、今度はとことん戦うつもりでした。ただ、前野先生もこれ以上は大事にしたくないと思ったのでしょう。ぼくは無事に卒業できました。大学院卒業の日に、教授室に挨拶に行ったんです。そのときに二人ともいたので聞きました。前野教授と森田さんはお付き合いされてるんですか、って。ぼくの最後の反撃です」
「めちゃくちゃ怒られただろう?」
「いいえ、二人ともびっくりした表情でした。でも、否定もされませんでした」
なにか弱みを握られ無理やり関係を続けているのではないかと、どうしてもぼくは考えてしまうのだが、小出は微塵も疑っていないようだ。
前野が強引なアプローチを繰り返すうちに、森田は本当に前野の愛人になってしまったのだろうか。ここで関係を否定することは森田を傷つけることになるから、森田の手前、前野は小出の言葉を強く否定できなかったということなのだろうか。愛人関係という負い目を森田に感じさせている状況なのであれば、「付き合っていない」と言い切ることは確かに森田をさらに苦しめることになる……。
それにしても、二人に直接確認した小出の度胸は想像以上だ。
「というわけで、森田さんは前野教授の愛人だったというわけです」
残酷な童話でも読み終えた子供のような表情で、小出はこの話を終わらせると、東京での仕事の話やら今度結婚する彼女の自慢やらをし始めた。
その日の夜、ぼくは久しぶりに具合が悪くなり、抗不安薬と眠剤をまとめて飲んだ。前野研での締めつけられるような胸の苦しみを思い出し、絶望的な気持ちが押し寄せた。ポキッと折れてしまった心が以前と同じように戻るには、長い年月が必要となる。それは金属疲労と同じように、もしかしたら一生戻らないものなのかもしれない。ぼくは、深海の底のような深い闇に包まれ、孤独で耐え難い気持ちを抱えたまま、眠りに落ちていった。
(つづく)
教授選クエスト 黒い善意と白い悪意

実績よりも派閥? SNSをやる医師は嫌われる? 教授選、それは大学病院のカオスな裏側へと続く“魔の扉”だった――。最先端であるべき場所で、時代遅れの計謀、嫉妬、足の引っ張り合いが繰り返されるという、異常な世界。それでも「新しいカタチの医局を作る!」と立ち上がった“ぼく”を待ち受けるゴールは? 現役大学病院教授が暴露する、リアル生き残りゲーム!
※このたび、『白い巨塔が真っ黒だった件』を改題し文庫化しました!文庫解説として、医師の友利新さんが寄稿くださっています。











