現役の医学部教授である大塚篤司先生が、大学病院の”教授選”を舞台に書いた「リアル人生ゲーム」!
「ここまで書いていいの?」と”界隈”を震え上がらせている小説が、文庫になって登場です。文庫版のタイトルは『教授選クエスト ~黒い善意と白い悪意~』。(単行本時のタイトル『白い巨塔が真っ黒だった件』から改題)
文庫版の本文を公開です。第2章「サイエンスの落とし穴」より――。
* * *
エジンバラの学会から十年後、K大学医学部皮膚科学教室の教授選考が始まった。
高橋教授の定年退職に伴うものだった。
投票にて結果が決まるその日は、医局全体がソワソワしていた。
一見普段どおり行われていたカンファレンスも、会話間の沈黙が普段よりわずかに長い気がする。全員が少しだけ遠慮をして発言している。積み重なる小さな気遣いが、医局員全体の緊張を的確に表していた。
この日、新しい教授が決まる。教授選がどのように行われ、ぼくら医局員にどうやって結果を知らされるのか、医局長になったばかりのぼくには分からず、なんなら当事者の谷口すら理解していない様子であった。
そう、本命だと噂されているのが、ぼくらの上司であり先輩である谷口准教授。K大学の生え抜きだ。業績も実績も人望もある。パーフェクトな教授候補だ。
──これで負けるはずがない。 しかし、単純にそう信じられるほど教授選は甘くない。
ぼくらが想像できないようなファクターXが教授選には存在し、時にそれが決定打となり致命傷となることを、ぼくは他大学で起きたいくつかの事例で知っていた。
対抗馬は地方国立大のI教授。五十代前半でグレーヘアが似合うやり手の皮膚科医はただ。旧帝大出身であるIは傍から見ても十分に野心的であり、さらなる飛躍のためにやはり旧帝大であるK大学のポストを狙っているようであった。
対抗馬のI教授が教授選で勝った場合、ぼくらのチームはおそらく解散となる。谷口はこの大学を去らざるを得ないだろうし、I教授はぼくら残党の粛清をすぐにでも始めるだろう。勝てば天国、負ければ地獄である。
大穴候補のHも忘れてはいけない。Hは谷口より一歳上のK大学の先輩だ。プレゼンが圧倒的に上手なのは、いくつかの学会で彼の発表を聞いてよく知っていた。知り合いの教授づてに聞いた話では、Hは教授選考委員会で、ぼくらチームの弱点を次々と指摘したらしい。その内容がぼくらをまたビビらせた。なにせHはチーム内のことを詳しくは知らないはずなのに、その指摘は全部当たっていたからだ。
──ひょっとしたらひょっとするかもしれない。次の就職先も考えておこう。 そんなことを考えながら、カンファレンス室の大型スクリーンに映し出された皮膚リンパ腫疑いの表皮を見つめていた。
17時を回り、カンファレンスも盛り上がらないまま終了し、幹部だけのミーティングが会議室で始まった。
そこにいる全員が今日、これから教授選の結果が出ると知っていた。でも、そのことを口に出す者は誰もいなかった。
結果が何時に出て、ぼくらはいつそれを知ることができるのだろうか。18時を回り幹部ミーティングも終了したが、結果はまだ出ていない。
──ちょっと遅すぎやしないか?
教授選の投票が行われる教授会が何時から始まったのか、ぼくは知らない。議論が長引いているのか、投票に手間取っているのか、もしかしたら決選投票になっているのか、いろいろな可能性を考えながらオフィスルームに戻り、パソコンのメールをチェックし始めたとき、部屋の電話が大きな音をたてて鳴った。

「人事係の小川です。准教授の谷口先生はいらっしゃいますでしょうか?」
ぼくは大きく息を呑んだ。
「はい、少々お待ちください」
受話器を左手に持ったまま、斜め後ろの席に座っている谷口に声をかける。
「先生、人事係からお電話です」
谷口の目に一瞬緊張が走ったのを、ぼくは見逃さなかった。
「もしもし──」
●
医者であればわりと耳にすることが多い「教授選」だが、実際にどのように行われるかを知っている者は少ない。
実は、教授選での選抜方法は、大学によって微妙に異なる。
一般的には、定年退職などで教授のポストが空けば教授選が始まる。前任の教授が退任した後に教授選を行う大学もあれば、辞める前に教授選を始める大学もある。前者の方法だと医局に教授不在の期間を長く作ることになり、現場が混乱するリスクを孕(はら)むが、後者の方法で行う教授選は、退職する教授の意向を受けやすく本当に良い人材が選ばれない可能性がリスクとして残る。
教授選となれば、まず、教授選考委員会が立ち上がる。審査や調査はこの委員会をメインに行われる。選考委員会は、医学部教授会から選考委員長一人と選考委員が数名、選ばれて結成される。
委員会が立ち上がると、書類選考へと進む。全国から自薦、他薦問わず、教授候補となる医師の履歴書や業績一覧が選考委員のもとに集まる。提出する書類は、履歴書や実績一覧に加え、代表的な論文数編のコピーや今後の抱負など多岐にわたり、合計で数十枚にも上る。書類だけで審査をされるわけであるから、教授選に出る人間は、臨床、研究、教育の三本においてこれまでなにをしてきたか、そして、これからなにをしていきたいのか、選考委員に向けて書類上で綿密にアピールしなくてはいけない。
書類選考だけで数カ月の時間を要する。そして、選考委員会は二、三人の最終候補者に絞る。
最終選考に残るだけでもかなり大変なことだ。なにしろ全国の猛者たちが「我こそは」と名乗りを上げるのが教授選だからだ。
こうして選ばれた最終候補者は、医学部教授会でプレゼンをすることとなる。誰が教授に一番ふさわしいかを決める最終決戦だ。
医学部の教授たちは、最終候補者のプレゼンだけで判断するわけではない。選考委員会からの意見を聞き、教授を決める投票へと進む。
臨床の教室に所属する教授と基礎研究の教室に所属する教授、それぞれが一票ずつ投票権を持つ。大学によって異なるが総数はだいたい三十票から五十票くらい。過半数を取れば勝ちだ。
こんなふうに長い時間と手間をかけて次期教授が決まる。
あの日、谷口が受話器を取るとともに、彼のiPhoneからけたたましい着信音が鳴った。
「ありがとうございます」
そう答える谷口の声を聞きながら、ぼくは腰の位置で軽くガッツポーズをした。自分事のように嬉しかった。いや、実際教授選は、チームのメンバーにとって将来がかかった自分事なのだ。
人事係とのやり取りは二、三言で終わった。ずいぶんあっさりとしたものだ。 谷口はすかさずiPhoneを取り出し、
「はい、今決まりました。ありがとうございます」
と、お礼の言葉を口にした。おそらくどこかの支援者からの着信だったのだろう。教授選では学内の支援者が必要だ。それは時に選考委員であったり、それに近い人物であったりするのだが、その詳細が当事者以外、周りに漏れることはない。
「おめでとうございます」
谷口が電話を切るやいなや、ぼくは声をかけた。
「ありがとう」
その日、朝からかすれて低く感じていた谷口の声は、少し高めで軽い、聞き慣れた音に戻っていた。
(つづく)
教授選クエスト 黒い善意と白い悪意

実績よりも派閥? SNSをやる医師は嫌われる? 教授選、それは大学病院のカオスな裏側へと続く“魔の扉”だった――。最先端であるべき場所で、時代遅れの計謀、嫉妬、足の引っ張り合いが繰り返されるという、異常な世界。それでも「新しいカタチの医局を作る!」と立ち上がった“ぼく”を待ち受けるゴールは? 現役大学病院教授が暴露する、リアル生き残りゲーム!
※このたび、『白い巨塔が真っ黒だった件』を改題し文庫化しました!文庫解説として、医師の友利新さんが寄稿くださっています。











