現役の医学部教授である大塚篤司先生が、大学病院の”教授選”を舞台に書いた「リアル人生ゲーム」!
「ここまで書いていいの?」と”界隈”を震え上がらせている小説が、文庫になって登場です。文庫版のタイトルは『教授選クエスト ~黒い善意と白い悪意~』。(単行本時のタイトル『白い巨塔が真っ黒だった件』から改題)
文庫版の本文を公開です。第2章「サイエンスの落とし穴」より――。
* * *
イチゴチョコの香りがすると、今でもこのときのことを思い出す。あのとき谷口から言われた言葉の真意を確かめないまま、ここまで来てしまっていた。改めて知るためにも、彼の研究室でキャリアをやり直したいと思った。
「そういうわけで、ぐっちゃんにはぼくから連絡をしておく。メールのCCに大塚くんを入れておくから、あとは谷口先生と直接相談してください」
ぼくのその後の人生を決めることになった教授面談は、わずか十分もかからずに終わったのだった。
谷口は優しくもあり厳しくもある上司であった。ぼくを鬱へと追い込んだ前野とは大きく違った。前野研では、ぼくも山本も実験のミスを厳しく追及された。しかし、谷口から実験のミスを追及されたことはない。そのミスがなぜ起きたか聞いてくることはあったが、次に同じミスを起こさないようにアドバイスをくれて、話は終わる。
「実験試薬の入れ忘れを防ぐために、必ず実験ノートに手順を書いてチェックを入れるようにした方がよい」
例えばこんな具合に。
大声で叱責することもなかったし、ぼくら大学院生を追い詰めようという気配を感じたこともなかった。その代わり、研究内容には厳しかった。
「予想と違ってこんな実験結果が出ました」と報告すれば、「それで大塚くんの解釈は?」とすぐさま返される。「こういう可能性を考えています」と答えれば、「他の可能性はないの?」と聞かれ、「この実験を踏まえて次はどうするの?」とたたみかけてくる。
研究というのは手を動かして実験を進めることも大事だが、それ以上に目の前のデータと向き合い、解釈し、次の道をどう進むか考えるのが重要だと体に叩き込まれたのは、谷口のおかげだ。
谷口から教えてもらった言葉で、座右の銘にしているものがある。
「夢見て行い、考えて祈る」
これは大阪大学の総長であった山村雄一博士の言葉である。
研究はまず「生命現象としてこんなことがあるのではないか?」と夢見るところから始まる。そして、その仮説を検証するために、適切な実験を行う。結果が出た後に、その意味を考える。だがその後、果たして自分の研究が世の中でどう評価されるのかは、最終的には神のみぞ知る。我々は最後、祈るしかないのである。
この言葉を聞いたとき、目の前の27インチのモニターには、実験データが美しい図となって映し出されていた。

「この言葉は順番が大事なんだ。山村先生もそうおっしゃっている。『夢見て考え、行って祈る』ではないんだ」
谷口は作業の手を止めて、こちらを見ないままそう言った。
普通は、考えてから行動する方が正しい順番なように感じるものだ。まずは夢見て、じっくり考えて、そして行動する。しかし、その逆だ。谷口が言う「順番の大切さ」を今の自分なら身をもって実感できる。考え込んでいたら、結局なにもせずに終わってしまうことが多い。夢見たら、考えるより先に、まず行う方がいいのだ。
ぼくは谷口の横で実験ノートを手に抱えたまま話を聞いていた。
「人間の体は、ぼくらが想像できないような現象で溢れている。我々凡人の頭で考えて分かるはずがない。実験を行い、その結果を“汚れのない目”で見つめることで、本当の答えが見えてくるんだよ。結果を見て、あらゆる可能性を考えるんだ。細胞たちが見せてくれたわずかなヒントを見逃さないように」
そこまで言うと、谷口はまたマウスに手を戻した。モニターでは、図の横のフォントが少し大きくなったり、右に移動したりしている。
「美しい図を作るように」そう言って谷口は会話を終わらせた。
谷口がよく口にしていた「美しい図を作るように」という言葉は、息を呑むほど整った彼の図とともに記憶に残っている。そんな谷口が世に出した論文の細部には、確かに神が宿っていた。
(つづく)
教授選クエスト 黒い善意と白い悪意

実績よりも派閥? SNSをやる医師は嫌われる? 教授選、それは大学病院のカオスな裏側へと続く“魔の扉”だった――。最先端であるべき場所で、時代遅れの計謀、嫉妬、足の引っ張り合いが繰り返されるという、異常な世界。それでも「新しいカタチの医局を作る!」と立ち上がった“ぼく”を待ち受けるゴールは? 現役大学病院教授が暴露する、リアル生き残りゲーム!
※このたび、『白い巨塔が真っ黒だった件』を改題し文庫化しました!文庫解説として、医師の友利新さんが寄稿くださっています。











