現役の医学部教授である大塚篤司先生が、大学病院の”教授選”を舞台に書いた「リアル人生ゲーム」!
「ここまで書いていいの?」と”界隈”を震え上がらせている小説が、文庫になって登場です。文庫版のタイトルは『教授選クエスト ~黒い善意と白い悪意~』。(単行本時のタイトル『白い巨塔が真っ黒だった件』から改題)
文庫版の本文を公開です。第2章「サイエンスの落とし穴」より――。
* * *
ある日、実験台で試薬を調整していたぼくは、谷口から「ちょっと」と声をかけられ顔を上げた。そこにはいつになく険しい表情の谷口が立っていた。谷口の表情が、これから話す内容の重大さを物語っていた。
「大塚くんの研究内容と似たような論文が出てしまった」
「え、ほんとですか?」思わぬ出来事に、ぼくは素っ頓狂な声を出した。
谷口は軽く手招きをして自分のデスクに戻ると、「ほら」と言ってモニターに映し出されている論文を指差した。
そこには、ぼくが行っていた研究内容とまさに同じ趣旨の論文が掲載されていた。
「まずいですね」そうとしか言えなかった。
──先を越された。
研究ではしばしばあることだが、まさか自分の身に起きるとは思わなかった。どんなに素晴らしい内容の研究でも、二番目となれば価値はぐっと下がる。最悪の場合、これまでのデータがお蔵入りになることだってある。「ぼくらの研究、論文になりますかね」
ぼくは心配になって谷口に尋ねた。
「まだざっとしか読んでないけど、着眼点は同じでも、細かなメカニズムは違っている。そういう点で論文になると思う。ただ、いくつか追加実験をしなくてはいけない」
最悪の事態を免れることはできそうだ。しかし、ぼくはポジティブな気持ちに切り替えることができなかった。世界で初めて証明したはずの輝かしい研究が急速に色褪せ、みるみるうちにありふれた論文へ変わっていくのを呆然と見ることしかできなかった。
「世の中には同じことを考えている人が三人はいる。だからこの分野はスピードも大事なんだ」
谷口にしては珍しく怒っている様子だった。それはぼくに対する怒りというより、自分自身に対する怒りだと思った。一番を取られたこと、競争で負けたこと、競合相手の動きに気がつかず自分たちの論文を投稿できなかったこと。全てに腹を立てている様子だった。 それから深いため息をついて、勝負に勝った相手の研究業績を調べ始めた。研究論文検索サイトPubMedで責任著者らの名前を入れ、「あー、ここは昔から肥満細胞をやっているグループだ」とつぶやいた。
気を取り直してぼくは聞いた。
「どこの研究室ですか?」

「ドイツのK大学」
聞き覚えのある大学名だった。思い出した瞬間に、全身の血の気が引いた。それはまさにエジンバラの国際学会で「Congratulations」と言って声をかけてきたグループだった。
ぼくは震える声を抑え、
「エジンバラの国際学会で質問してきたグループです。ネタをパクられたかもしれません」と絞り出した。
谷口は返事をしなかった。そして、そのままモニターに映し出された競合相手の論文を、隅から隅まで食い入るように読み始めた。 しばらくの間、ぼくは谷口の横でただ立ち尽くしていた。とんでもないことが起きている。海外の競合するグループに自分たちの研究アイディアを盗まれた。それも、自分が事細かく競合相手に説明したから起きた事件だ。なんてことをしてしまったのだろう。
呆然とするぼくに、谷口は声をかけた。
「大塚くん、パクリではないよ」
そう言って、耳が腫(は)れたネズミの写真の下にある文章を指差した。
「彼らはぼくらと違う遺伝子改変マウスを使っている。このネズミを作製してデータを出すまでには二年かかるだろう。大塚くんの発表を聞いてからでは間に合わない」
「でも、質問してきたドイツ人は、ぼくらのマウスについて事細かに聞いてきました」
「それは、ぼくらの研究の進み具合を知りたかったのだろう。たぶん、彼らも遺伝子改変マウスを使って同じテーマの研究を進めていた。それが、全く違うマウスを使って、自分たちと同じ現象を発見した若手の日本人が現れたから、びっくりしたに違いない。こちらの進捗とデータの内容、論文の発表時期までを確認した上で、競争に勝とうとしたんだ」
「それってフェアじゃないような気がします」
ぼくは少しムキになって言った。
「そうだね、フェアではない。でもルールを破っているわけでもない。ぼくらが彼らの研究より早く論文を仕上げていれば、なにも問題はなかっただけだ」
「とても残念です。良いデータだったのに。彼らが出した論文と同じなら、世の中の役に立たないですね」
ぼくは自分が発した言葉のとげとげしさに自分で慌てた。
「そういえば、大塚くんは役に立つ研究をしたいと言っていたね」
皮膚科一年目のあのときに交わした会話を谷口は覚えていた。
「役に立つ研究をしようと思うと、役に立たなかったときにとてもがっかりする。きっと今回がそうだね」
ぼくは静かにうなずいた。
「基礎研究が役に立つかどうかなんて、ずっと先まで分からない。今回みたいなことだってあるし、もしかしたら全く意味のない発見をしてしまうことだってある」 モニターを見ると、皮膚の写真のページで止まっていた。
「もちろん、将来的に患者さんの役に立つ研究ができたら嬉しいし、ぼくもしたい。でも研究をやっているときは、研究そのものを楽しんだ方がいい。自分が知りたいと思う現象を追究し、それを証明することで喜びを感じるんだ」
改めて谷口は、ぼくの方に体を向けた。
「それでも研究は競争だ。今回負けた悔しさをお互い忘れないように頑張ろう」
谷口は軽くポンポンとぼくの肩を叩き、それからまた競合相手の論文データを、真っ赤になった目で見返していた。
研究者であれば、世の中の役に立つ研究をしたいと、程度の差はあれみな思うはずだ。ただ、全ての研究が世の中の役に立つわけではない。今のぼくには、「自分の知的好奇心を大事に、研究を楽しむことが重要だ」という言葉が深く沁みた。
悔しさを胸に、ぼくは谷口のもと、その後寝食を惜しんで研究に勤(いそ)しんだ。
その日から八年後、谷口とぼくは新しいアトピーの薬の開発に成功する。役に立つかどうかはさておき、好奇心に突き動かされた研究、しかし、心の奥底では誰かの役に立つことを祈っていた研究成果は、最高の形で患者に役立つものとなった。
(つづく)
教授選クエスト 黒い善意と白い悪意

実績よりも派閥? SNSをやる医師は嫌われる? 教授選、それは大学病院のカオスな裏側へと続く“魔の扉”だった――。最先端であるべき場所で、時代遅れの計謀、嫉妬、足の引っ張り合いが繰り返されるという、異常な世界。それでも「新しいカタチの医局を作る!」と立ち上がった“ぼく”を待ち受けるゴールは? 現役大学病院教授が暴露する、リアル生き残りゲーム!
※このたび、『白い巨塔が真っ黒だった件』を改題し文庫化しました!文庫解説として、医師の友利新さんが寄稿くださっています。











