中東危機、ウクライナ戦争、外国人問題、世界インフレ……。現代社会が直面する諸問題に歴史の知識で立ち向かえ。
東大名誉教授・本村凌二氏の『武器になる世界史』は、「歴史に学ぶ力」を養う実践的な知識が身に着く一冊です。混迷の時代と言われる現代だからこそ読んでほしい本書から、一部を抜粋してご紹介します。
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アテネ民主主義の失敗例
民主制を進めたクレイステネスによる一連の改革のなかでもっともよく知られている仕組みは、独裁的な僭主の登場を防ぐために設けられた「陶片追放(オストラシズム)」でしょう。民主政にとって危険な人物の名前を市民が陶器のかけらに刻んで提出し、それが6000個を超えると最長で10年の国外追放に処すことのできる制度です。
一見すると、この陶片追放は専制的なリーダーの台頭を防ぐ良いシステムのように思えるかもしれません。もちろん、クレイステネスもそう考えて導入したのでしょうが、そのクレイステネス自身ものちに一年ほど国外追放されるという皮肉なことになりました。自分たちの代表にふさわしい人物を選ぶ選挙と違い、陶片追放は自分が嫌う人物を排除するシステムにほかなりません。したがって、市民たちのあいだに政治上の対立があると、この制度は政敵のリーダーを追い落とすための道具として使われてしまうのです。
現代社会では、日本を含めた多くの民主主義国で政治的な「分断」が進んでいるといわれます。インターネット上では、気に入らない政治家を貶めるためにフェイク画像を使った誹謗・中傷を発信することを厭わない人々も少なくありません。自分たちの主義主張を押し通すためには、敵を排除すればいい。これもまた歴史に学ぶことができない人間の性(さが)なのかもしれません。
そんな社会にもしアテネの陶片追放のような仕組みがあったら、どのような弊害が生じるかは容易に想像がつくでしょう。敵対する勢力が、お互いに有力な政治リーダーを排除していけば、政治家のレベルはどんどん下がり、その社会の政治そのものが劣化する一方ではないでしょうか。民主政にはそういうリスクもあるので、その運用方法によっては「最悪の政治形態」にもなるのです。
政治家に求められたのは市民を説得する能力
アテネの民主政には市民たちの意見をうまく集約して、社会を健全な方向に進めていくための有能なリーダーが不可欠でした。
この時代の指導者としてとくに有名なのが、第二回ペルシア戦争から37年後の紀元前443年に将軍職に選出されたペリクレスです。彼は、世界史に名前の出てくる政治家のなかでも屈指の有能な人物といっていいでしょう。
ペリクレスはたいへんな雄弁家として知られていましたが、巧みな弁舌を駆使して自分の意見を強引に押し通すようなことはしません。さまざまな意見に耳を傾けて、それを集約する術に長たけていました。
しかし、たとえ幅広い意見をまとめたものであっても、市民のあいだには対立もありますから、どの勢力にも納得してもらわなければ民主的な意思決定は実効性を持ちません。多様な意見を集約した政策は、どの勢力も少しずつ不満を抱く内容になりがちです。
そこでリーダーにとって重要なのは、自分の政策を民衆に広く受け入れてもらうための説得力でした。ペリクレスは、雄弁家としての能力をそこで発揮したのです。
民衆を説得できない政治家が国を分断させた
古代ギリシアのポリス社会は、現代の国家のように大きなものではありません。アテネの人口は20万~30万人、そのうち参政権を持つ成年男子は最盛期でも4万~5万人だったと思われます。ですから、国のリーダーと市民の心理的な距離は、いまの社会よりもはるかに近いものだったでしょう。市民の理解を得て政策を推し進めていく上で、リーダーには高い見識と説得力のある言葉が求められました。
そうやって民衆(デーモス)を説得する人間のことを古代ギリシア語で「デマゴーゴス」といいます。それを語源とする「デマゴーグ」は、デマ(嘘や無根拠な風説など)を流すことも厭わずに大衆を扇動する政治家や活動家のことを指しますが、もともとは悪い言葉ではありませんでした。
「デマゴーゴス」が悪い意味の「デマゴーグ」の方向に進んだのも、古代ギリシアの歴史のなかでの出来事でした。ペリクレスのように有能な人物は民衆を説得できましたが、それができない指導者もいました。説得が次第に扇動へと変わっていったのです。
事実、プラトンは主著『国家』のなかで、「デマゴーゴス」の暴走による危険性を指摘しています。プラトンが同時代人として見たのは、ペリクレスの死後にどんどん劣化し、破綻を来したアテネの民主政だったからです。
ギリシア世界における最大の大戦
アテネの民主政を劣化させるきっかけになったのは、前431年から前404年まで27年間にわたって続いたペロポネソス戦争です。
当時、ギリシアのポリスはアテネ率いるデロス同盟(前478~)とスパルタ率いるペロポネソス同盟(前451~)の両陣営に分かれて対立していました。そのため各地でポリス間の争いが頻発していたのですが、そこにアテネとスパルタが介入したことで「ギリシアの世界大戦」ともいえる規模に発展してしまったのが、ペロポネソス戦争です。いわば、東西冷戦時代の地域紛争に米ソ両大国が介入して世界大戦になったようなものでしょう。冷戦では実際に大戦とはなりませんでしたが、核戦争が勃発してもおかしくないほど緊迫したキューバ危機(1962)のようなことはありました。
ペロポネソス同盟との開戦後まもなく、守勢に回ったアテネでは、ペリクレスがその戦争を民主政を守るための重要な戦いだと位置づけ、市民にそれを訴える演説を行いました。そして、大攻勢を仕掛けてくるペロポネソス同盟軍に対して、城壁で守られた中心部に市民を集めて籠城作戦を行います。
しかしそれが裏目に出てしまいました。大勢のアテネ市民で過密状態になったために疫病が蔓延し、翌年までに人口の三分の一が失われてしまったのです。そしてペリクレス自身も病に倒れ、この世を去ってしまいました。ペリクレスの二人の息子も亡くなってしまったので、後継者も残りませんでした。
意見をまとめられなくなった民主制の末路
それ以降、アテネでは戦争をめぐる意見が対立し、政治は混乱していきました。同じアテネ市民でも、戦争を続けることで利益が得られる者もいれば、戦費の負担によって苦しくなる者もいます。政治家たちは、徹底抗戦を主張する主戦派と和平を求める穏健派に分かれて、それぞれが民衆の説得を試みるようになりました。いまでいう「分断」が生じたわけです。
そうなると、論敵を貶めるための誹謗や中傷も飛び交ったでしょう。民衆の「説得」というより「扇動」に近い演説も少なくなかっただろうと思います。こうして「デマゴーゴス」が、いまでいう「デマゴーグ」と化していったわけです。
それでも戦争の前半は、ペリクレス時代に国力を高めていたアテネが有利に進んでいました。開戦の6年後にはスパルタに近いピュロスへの上陸を果たし、スパルタが講和を申し入れたこともありますが、主戦派のリーダーだったクレオンがそれを拒みます。
それがやがてスパルタの反攻を招き、クレオンが戦死。ここでアテネは穏健派のニキアスがリーダーとなり、前421年にスパルタと講和しました。
民主主義とは広い意味でのポピュリズム
しかしペロポネソス戦争はまだ終わりません。いわゆる「ニキアスの平和」から数年後には、アテネで再び主戦派の指導者が登場しました。名門貴族出身で、たいへんな美貌の持ち主だったとされる、アルキビアデスという青年です。彼は弁舌に長けた野心家で、いまの言葉でいえば「ポピュリスト」、つまり大衆迎合主義者でした。
「ポピュリズムとは何か」については、必ずしも定まった見解があるわけではないでしょう。大衆への迎合、扇動を批判する文脈で使われることがほとんどですが、民衆の意見を取り入れるのは、民主主義では当然のことです。そのデモクラティックな姿勢と「迎合・扇動」のあいだに、明確な線を引けるものでもありません。
ですから私は基本的に、民主主義は広い意味でのポピュリズムだと思っています。有権者である民衆の意見を無視したデモクラシーはあり得ません。
アテネ民主主義が迎えた悲劇
アルキビアデスは、スパルタと密接な関係にあるシチリア島への出兵を主張しました。デロス同盟の一員であるセゲスタというシチリア島のポリスが援軍を求めてきたこともありますが、この島は豊かな穀倉地帯ですから、そこを手中におさめればアテネには大きな利益がもたらされます。和平を実現したニキアスは反対しましたが、アルキビアデスの弁舌は大衆の熱狂的な支持を受け、シチリア遠征は民会で承認されました。
しかし、大艦隊を組んでシチリアのシラクサに侵攻したアテネ軍は、敵の同盟軍の激しい抵抗を受けて攻めあぐねます。長期間にわたってシチリア沿岸に留め置かれたため、狭い艦内で戦士たちに病気も広まりました。
そこで多くの戦士を失ったアテネは、まったく成果を得られないまま、惨敗を喫しました。このシチリア遠征の失敗からアテネは劣勢となり、11年後の前404年に降伏することになったのです。
武器になる世界史

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