中東危機、ウクライナ戦争、外国人問題、世界インフレ……。現代社会が直面する諸問題に歴史の知識で立ち向かえ。
東大名誉教授・本村凌二氏の『武器になる世界史』は、「歴史に学ぶ力」を養う実践的な知識が身に着く一冊です。混迷の時代と言われる現代だからこそ読んでほしい本書から、一部を抜粋してご紹介します。
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アテネの民主政は「失敗例」として考えるべき
「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、これまでに試みられてきたほかのすべての政治形態を除けば」
たいへん有名な言葉ですから、見聞きしたことのある人も多いでしょう。第二次世界大戦期のイギリス首相、ウィンストン・チャーチル(1874~1965)の言葉です。いかにもイギリス人らしい皮肉と本音の混じった名言だと思います。
王政、寡頭政、僭主政、共和政、そして民主政。5000年に及ぶ文明史のなかで、人間の社会はさまざまな政治体制を経験してきました。その変化を「進歩」としてとらえている人もいるかもしれません。
ですが、どの体制であれ、社会は良くも悪くもなります。チャーチルにいわせれば民主政がもっとも「マシな悪」ということになるのでしょうが、歴史を振り返れば、民主主義から生まれたナチス・ドイツよりも良い社会をもたらした王政や共和政は、いくらでもあるでしょう。
ですから、民主主義さえ採用すれば必ず良い社会になるなどということはありません。民主政のルーツと思われている古代ギリシアがそうでした。たとえばアテネの民主政が続いたのは、長く見積もってもせいぜい100年、うまく機能した時期は50年程度だったといっていいでしょう。民主主義を生んだ偉大な社会だと思われがちなアテネですが、むしろ民主主義の失敗例として見るのが妥当です。
民主制の原点はスパルタにある?
そもそも、民主政は必ずしもアテネで誕生したとはいえません。明確な理念として民主政を掲げたのはアテネが最初だったといえますが、同じギリシアの有力なポリスとしてアテネと覇を争ったスパルタも、当初からある種の民主政と呼べる体制を持っていました。
しかも、スパルタはアテネよりも早くポリスを形成しています。明確な理念に基づくものではなかったとはいえ、徹底した平等主義に基づく民主的な体制を整えたという点では、こちらが「民主政の原点」といえなくもないでしょう。
スパルタの政治体制は「リュクルゴス制」と呼ばれています。リュクルゴスはスパルタの軍国主義体制をつくった人物とされていますが、実在したかどうかはわかりません。軍国主義のスパルタには「アゴーゲー」という組織的教育と軍事教練の制度があり、のちに「スパルタ教育」の名で知られるようにもなりました。
民主制=平和という大きな誤解
軍国主義もスパルタ教育も、日本の戦後民主主義とはあまり相性が良くないイメージがあります。ですから、そのスパルタが民主的な体制だったと聞くと違和感を抱く人もいるかもしれません。
しかし、民主主義と平和主義が常にワンセットではないのは当然です。いまの日本国憲法は平和主義に基づいていますが、大日本帝国憲法下の日本も、まがりなりにではあれ、民主的な選挙に基づく議会を持っていました。軍国主義のスパルタに民主的な性質があっても、まったく不思議ではないわけです。
また、スパルタには世襲制の王が二人いたので、これも民主政とはそぐわない印象を与えます。しかしこの王たちには政治的権力がなく、戦争などの有事に指揮をとることがおもな役割でした。スパルタの国家組織の中心は、その王と長老からなる30人の「長老会」です。
それに加えて、スパルタ市民(スパルティアタイ)たちが国家の問題を話し合う「民会」がありました。民会からは「エフォロス」と呼ばれる監督官も5人選出されていましたから、まさに民主的な機能を果たしていたといえるでしょう。
市民に楽をさせないために平等を追求する
スパルティアタイたちは、その土地の先住民を支配する形でポリスをつくりました。支配階層に属する市民はおよそ一万人。隷属民のほうが圧倒的に多かったので、これも日本の民主主義とは相容れません。
しかしアテネの民主政も、参加できたのは市民だけで、奴隷や女性は蚊帳の外でした。時代によって、民主主義の形はさまざまです。
それはともかく、数に勝る隷属民たちの反乱が起きれば、ポリスは崩壊してしまうかもしれません。そのためスパルティアタイたちは強く結束して、軍事力を高める必要がありました。そのためスパルタ市民は、まさに「スパルタ教育」からイメージする厳しい規律や訓練を重んじる日々を送っていたのです。
そんな市民たちが結束するには、平等を徹底するのがいちばんでしょう。誰か一部のメンバーが楽をしていたら、結束力は低下します。スパルタ市民には「ホモイオイ」という別名があり、これは「平等な人々」という意味でした。
こうしたスパルタの「民主政」は、こアテネの民主政よりも、ある意味で安定したものだったといえます。のちにペロポネソス戦争でアテネがスパルタに敗れた背景には、政治体制の差があったことも見逃すことはできません。
独裁的な政治を歓迎したアテネ市民
ポリスを形成した当初から民主的な体制を持っていたスパルタに対して、アテネはもともと貴族政や僭主政でした。貴族政は家柄を持つ特権階級が政治権力を持ち、僭主政はさらに一部の支配者に政治権力が限定される体制です。
そこから平民たちが民主政を勝ち取ったことを考えると、アテネを「民主主義の生みの親」とするのも、決して間違いではないかもしれません。平民が権力を握るまでのプロセスには明確な理念があったのです。
アテネで民主政が生まれた流れを簡単に説明しましょう。貴族政から始まったアテネは、その貴族たちの派閥争いの混乱に乗じる形で政権を握ったペイシストラトスによって、独裁的な僭主政へと移行しました。僭主とは、武力や暴力によって非合法に君主の座を得た者のこと。ふつうなら市民に嫌われて、反発を受けても不思議ではありません。
しかし当時のアテネの平民は貴族政への不満を募らせていたため、独裁者のペイシストラトスを支持します。そのためペイシストラトスは、思うままに権力を振るうことができました。しかもリーダーとしての能力も高かったので、アテネの国力を高める施策を次々と行います。その結果、アテネは飛躍的な繁栄を遂げ、ギリシア最大のポリスとしての基盤を築きました。
アテネはどのように民主政にたどりついたのか
ペイシストラトスの指導者としての資質は、後年、プラトンと並ぶ古代ギリシア最大の哲学者のひとりだったアリストテレスも称賛しています。(ただし、プラトンもアリストテレスも民主政には批判的でした)
しかし、僭主による独裁的な体制は長続きしません。ペイシストラトスの死後は二人の息子が後継者として共同統治を始めましたが、弟のヒッパルコスが恋愛トラブルで殺されると、兄のヒッピアスが独善的な政治を行う暴君と化してしまいます。そのため前510年に蜂起したアテネ市民に追放され、アテネの僭主政はわずか半世紀ほどで終焉を迎えました。
そしてアテネは、民衆の支持を受けた名門貴族クレイステネスの改革によって、僭主の登場を防止する対策を講じ、民主政を確立します。
武器になる世界史

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