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金沢で、ウイスキーをもう一度

2026.06.27 公開 ポスト

パリの左岸。名もなき中華食堂にて大平一枝

 料理編集者という職種には、なかなかおもしろい人が多い。私は料理ページを書く機会はほとんどないが、友達の友達のようにしてつながり、いつの間にか気のおけないお付き合いをするようになった人が何人かいる。

 


 角田光代さんがエッセイに、料理編集者には、目に映る飲食店やおいしいものの看板を端から声に出して読み上げる癖がある、と綴っていた。一緒に台湾かどこかに出張した折、タクシーの中で気づいたそうだ。
 あまりに思い当たる節がありすぎ、大笑いした。たしかに、「わあ、おでんだって」「手羽先!」「クラフトビールあり」「◯◯飯店☓☓店」……声に出す。店でも、めぼしいメニューを読み上げる。隣で聞いているだけで、実際のおいしさが増幅するような気さえする。

 

 また、高級レストランや有名なものばかり食べているわけでもない。食べることへの尽きせぬ好奇心と博覧強記ぶりは、せんべろといわれる千円でベロベロに飲める安い酒場から、スーパーの春巻き、コンビニの乾き物にまで発揮される。
 そんな編集者のひとり、ルミさんとパリを旅した。私は郊外のフランス人宅の取材の帰り、ルミさんは単独で休暇を取得。パリで合流した。

 ホテルは彼女たっての希望で、左岸のサンジェルマン寄りにある老舗百貨店ル・ボン・マルシェから徒歩3分。恵まれた立地にありながら、落ち着いた空気の漂う洗練されたプチホテルだった。

 ル・ボン・マルシェは、ルミさんの大好きな場所のひとつである。パリにも食関係の知り合いが多く、行きたい食料品店やマーケットが決まっている彼女は、限られた時間で効率よく回りたい。そのため宿の立地は重要だ。いつも、料金が最優先で、寂れた街の安宿にしか泊まったことのない私にはとても新鮮だった。
 実際、出張終わりの疲れた体に、彼女の望む行動範囲のサイズはちょうどよかった。

 マドレーヌ寺院の伝統あるマスタード「マイユ」を買って、美術館のマルモッタン・モネ、オルセー、近現代美術のポンピドゥ・センターを堪能。友達に頼まれたCDを買いに大型書店兼CDショップ「フナック」へ行ったり、現地で注目されている若い日本人シェフのビストロなど、縦横に歩き回った。

 うち一日はノルマンディー地方まで足を伸ばし、モネが晩年に暮らした家と庭のあるジヴェルニーを訪ねた。これが忘れ得ぬ光景で、庭の池は、モネの『睡蓮』連作のモデルになっている。野趣を帯びた草花の緑と、光を讃えた水面の輝きのコントラストが、息を呑むほど美しかった。
 ショップでは、迷わずノルマンディー発祥のりんごのブランデー、カルヴァドスのボトルを買った。
 私はこれが大好きで、ウイスキーと同じくらい目がない。以前、キク子と行ったモン・サン・ミッシェルへのバスツアーでも、途中休憩地のノルマンディーで買い込んだ。

 ノルマンディーはりんごの名産地で、それを原料にしたシードルを蒸留してできたのがカルヴァドスである。度数は四〇度前後と高いが、りんごの香りをまとった、柔らかでまろやかな余韻がある。香りも深くてフルーティ。
 夏の暑い日、ソーダで割って飲むと、一杯でやめることが難しいほど。本来は、食後酒として小さなグラスで飲むものらしく、お代もそれなりにする。ごくごく飲むものではないのである。どのバーや飲食店にも置いてあるわけではないので、カルヴァドスのある店はそれだけで歓喜する。
 帰国後、大事に大事に飲んだ。私にとって、ジヴェルニーという地名から想起されるものは、モネの睡蓮とカルヴァドスが同列のセットだ。

 そう、前述のマイユの店でルミさんは、慣れた手つきでバッグから空き瓶を取り出し、中身を詰め替えてもらっていた。驚いて凝視していると、ここで買ったマスタードの空き瓶を持参すると、量り売りで中身だけ詰めてもらえるそうな。なんと実用的で環境にも優しいしくみであるのかと見とれた。いや、そのしくみを知っているルミさんのパリ慣れした佇まいに見とれたというのが正しい。

 近所のル・ボン・マルシェには、朝な夕なと何度か通った。デリや惣菜が並ぶ食品フロアのスペインバル風コーナーでピンチョスをつまんだり、ワインショップで一杯味見したり。
 市内の散策では、目に留まったカフェのテラス席で生ビールを飲んだ。
 夏のパリの乾いた空気に、ビールがことのほか染みた。すらっと背の高いソムリエの青年がお盆に黄金色のグラスを載せ、きびきびと働いているのを見ると、ケーキとカフェラテのつもりが、つい「ビ、ビールを」と言葉が勝手に漏れてしまう。
 店の名も場所も覚えていない。だが、昼下がり、歩き疲れた足を擦りながら、雑踏の隙間に張り出されたテラス席で、くいっと仰いだグラスの琥珀色の旨さは忘れられない。

 パリでたくさんおいしいものを食べて飲んだのに、最も印象深いのは、最終日の晩に寄った、名もなき裏通りの中華店である。
 その店は、ホテルの窓から見下ろす駐車場脇のような薄暗い静かなエリアにあった。
 初日から、赤い看板に漢字の小さな一軒家が、ビルとビルに挟まれたマッチ箱のようにちょこんと佇んでいるのを知っていた。
 しかし、食の予定は目白押しである。あそこも行きたい、ここもいいね。ルミさんの食への興味の深さは、プロそのもの。ふだんから情報がインプットされていて、一度食べておきたいという職業的好奇心も強い。
 そういう人についていくと、ふだん出会えない皿に巡り会える。だから滞在期間に、赤い店に行きたいとはふたりとも微塵も思っていなかった。

 ところが最終日。仕事の都合で、帰る便はバラバラである。ああこの楽しい旅が終わってしまうという一抹の寂しさもある。パリで一緒に食べるのはこれが最後。さて、どうする。
 胃腸の疲れ具合がどれくらいかわからないので、最後の晩餐だけはルミさんもあえて予定を立てていない。ノープランの風まかせだった。

 窓から遠くを見ながら、どちらからともなく言った。
「あの中華、行ってみようか」
「いいね。おかゆもあるかもだしね。なんだかさっぱりしたもの食べたくなっちゃった」
 三秒で意見が合致し、ホテル裏のあの店へ。

 中国人の家族経営らしい、みるからに庶民的な四川料理店だった。年季の入ったメニューブックは品数豊富で、さっきまで胃腸に優しいものをとどの口が言っていたかと思うほど、食欲が湧いてきた。
 最初に頼んだのは、なにはなくとも青島(ちんたお)ビールである。冷えたジョッキにさっとでてきたそれの、おいしかったこと。豆皿にザーサイと、なにかの浅漬が添えられていた。日本の居酒屋のビールと枝豆を思い出した。ほっとなごんだ。
 ルミさんは手作りザーサイのおいしさに魅了され、「なんかほかと違うね」「どうやって作るんだろう」とさっそく謎解きが始まっている。

「最後が青島ビールとザーサイの町中華なんてね」
 ふたりで笑いあった。
 一杯だけのつもりが、紹興酒など二杯、三杯と増えた。
 パリの中国、ディナーの思い出。締めくくりに相応しい、不意打ちの福音のような夜だった。

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金沢で、ウイスキーをもう一度

お酒をほんとうに美味しいと思ったのは、37歳になってからだった――。子育てに奔走した時代から、少しずつ自分の時間を使えるようになって目覚めた「お酒」のこと。時間を惜しみながら飲み始めた地元・下北沢での日々、東京のさまざまな場所、そして金沢や沖縄、秋田、パリやアイルランドなど旅先での忘れられない1杯まで。珠玉の酒エッセイ。

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大平一枝

文筆家。長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に「東京の台所」シリーズや『人生フルーツサンド』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など。「東京の台所2」(朝日新聞デジタル&w)、「自分の味の見つけかた」(ウェブ平凡)、「遠回りの読書」(サンデー毎日)など各種媒体での連載多数。

HP:https://kurashi-no-gara.com/

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