今となっては、私を知る人々から虚偽だと一斉非難を浴びかねないが、人生で「お酒というものはなんておいしいんだろう」と心から感じ入ったのは37歳である。しかも、初めて労働後のビールの旨さを知ったものの、自ら進んで飲むようになるまでにはそれからまだ10年先。47歳の2月5日からだ。
つまり人生のほぼ半分を、私は酒を知らない。付き合いで楽しく飲んではいたものの、家では飲まない。あってもいいけれど、なくてもまったく平気で、機嫌よく食後はアイスを食べたり、梅ソーダを飲んだりして暮らしていた。
どちらも年齡を明記できるのは、「あの日」を鮮明に覚えているからだ。
生ビールを旨いと思ったあの日のことは、これまで何度か書いたことがある。
梅雨に入るか入らないか。暑くてたまらないというほどでもないある平日の夕方。友達でカメラマンのキク子──趣味のキックボクシングに命をかけていることから本連載ではこう呼ぶことにする──と、下北沢の私の自宅や屋外で一日立ちっぱなしの仕事を終えたときのこと。
彼女は撮影、私は編集兼ライティングで、カット数は知れていたが、互いに朝から気持ちが急(せ)き、特殊な緊張感があった。なぜなら、私の娘の保育園の迎えというタイムリミットがあったからだ。だからといって納得のいかない仕上がりにはできない。妥協せず、しかし制限時間を超過せず。なにがあってもそれまでに終えなければならないという私の勝手な事情は、キク子に負担を強いていたろうと思う。
無事、17時に終わった。リミットより1時間早い。昼食はコンビニのサンドイッチをつまむ程度で済ませていた私たちの緊張はようやくほどけた。
機材やノートを自宅に置き、軽い足取りで近所のカフェへ。ひと息つこうという話になったのだ。
今はもうないけれど、ガラスケースに惣菜とスイーツが並び、小さなバーカウンターも併設された、甘いものから食事、ちょっと一杯まで楽しめる便利な店だった。
さてどのケーキにしようと、私は目を輝かせた。働いたあとは甘いもの、がならいである。周囲の女性雑誌の現場でもそんな事が多かった。
しかし、キク子は店の奥に目を留め、「お、ギネスの生があるね。ねえねえ、これほんとに生?」と店員さんに尋ねている。この人は、他者との垣根が比較的低く、性別、年代、人種に関係なく誰にでも気楽に話しかけられるという特殊能力を持っている。でも、「ほんとに」とはどういう意味だろう。ギネスという単語も初耳だ。
聞くと、なんでもないことのように教えてくれた。
「ギネスはアイルランドの黒ビール。すっごくおいしんだよ。日本ではなかなかお目にかかれない。あったとしても普通は缶。管理が難しいから。ギネスの生ビールのタップがある店は貴重だよ」
彼女は、大学卒業後、老舗出版社に就職するも、幼い頃からの夢であるカメラマンを志してスタジオアシスタントに。厳しい修行をしながらアルバイトを掛け持ちしてお金を貯め、渡仏。フランスで6年間カメラマンをしていた。そのパリのひとり暮らしで、俄然強くかつ詳しくなったのが酒だ。地下のバーから、街角のカフェ・タバックというタバコ屋を兼ねたおじさんの社交場のような店にもひとりで立ち寄る。そこはテレビでサッカー中継をやっていたり、ロトを買えたりする。ワインやビールが安価で、つまみはナッツくらいしかなく、常連の年配客が新聞や競馬紙のようなものを広げている。私もパリで一緒に入ったが、なかなか女がひとりで入るには勇気のいる、労働者のおじさんたちが憩うスタンドのような空間だっだ。
その後、キク子から奥深い酒の楽しみ方をたくさん学ぶことになるのだが、このときの私はまだギネスというアイルランドの国民的な黒ビールも知らず、酒に関してまったく不案内だった。
チーズケーキとアイスカフェラテあたりで迷っていた私は、ふとその聞き慣れないものに挑戦したくなった。キク子は、さらにオーダーを続ける。
「ワンパイント。ああ、ギネスはちょっと重いからハーフにしておこうかな」
パイントというサイズがあるのか。
私も真似して注文し、盆にのせられてやってきたそれは本当に褐色で、見るからに滑らかそうなきめ細かい泡が表面を覆っている。日本の透明感のある黒ビールとは異なる、どーんと深い沈みこむような黒だ。
「この泡もね、上手に注ぐのは難しいんだよ。店やバーテンダーさんによっても全然違うの」
なるほど、どうやら繊細な飲み物らしい。
ひと口含む。苦みががつんと舌先から伝わるが、鋭くない。未体験のきめの細かいまろやかな舌ざわりで、飲んだ端から次のひと口が欲しくなる。香ばしいような、チョコレートのようなどこか甘く複雑な苦みが、喉の奥にするんと落ちていく。流麗で滑らか。それでいて色のとおり、しっかりと飲みごたえがある。ああ、これは労働者のビールだと、直感的に思った。
もう一杯欲しくなった私は、きっぱりキク子に「これから夕ご飯作るんでしょ。やめときな」と制され、つかの間の打ち上げは終わった。そうだ私はお母さんに戻らねばならぬ。
保育園の迎え前に一杯など、世間様に顔向けできない話であるが、二児合わせて9年間で、あれ一度きりなのでどうか大目に見ていただけるとありがたい。
このとき初めて、働いたあとの褒美は甘いものだけでなく、アルコールという選択もあるのだと知った。思えば父も、あの先輩も、上司もそうしていた。
香りきわだつ異国の生ビールに舌鼓を打ちながら、大人の仲間入りをしたような、晴れがましい忘れ得ぬ一杯である。
以来、機会があれば多少飲むようにはなったものの、10年の時を経て47歳の冬、本格的に酒に目覚めた。日にちを覚えているのは、娘の私立中学合格発表の日だからだ。
それまで、娘は小学校から帰宅したかと思えば、ひと息つくまもなくランドセルをリュックに持ち替え、ずしりとたくさんの参考書を詰め、毎日バスで受験塾に通った。帰りは21時過ぎなので、バス停まで迎えに行く。
夜道の迎えが欠かせぬ暮らしが3年間続いた娘、12歳の冬。合格発表の日に、「今日から夜の迎えはいらないんだ」と思ったとたん、とんでもなくタガが外れた。
たまたま誘われていた大勢の集まりに勇んで出かけ、みっともないくらい泥酔した。会場は自宅近くのワインビストロだった。
どのくらい飲んだら、自分はどうなるのか。飲み慣れていないので、加減がわからない。ただただ、夜の時間を自由に使えるという嬉しさだけが全身を支配していた。
急ピッチでワインを飲み続け、宴が始まって一時間足らずで立っていられなくなり、とうとう主催者に詫びて途中退席した。
ドアを出るまでにも、店内のあちこちに頭をぶつけた。心配する同席者に「大丈夫です」と見栄を張り、外に出たはいいがまっすぐ歩けない。まごうことなき千鳥足に、これコントで見たことがあるぞと思ったことだけ覚えている。
7、800メートルの帰路の半ば、いよいよ歩けなくなり、留守番をしていた高一の長男に電話をして、迎えに来てもらった。私はだらしなくおぶわれて帰るなり玄関に倒れ込み、ここから先は記憶がない。
あとから息子が言うことには、玄関で寝ながら“これ水につけといて”と人差し指の上のハードコンタクトを、ぐいと差し出されたらしい。
息子はその後しばらくして反抗期らしきものがきたけれど、あの夜の醜態と無縁でないと思えてならない。
その晩22時、ウエブサイトで娘の学校の合格発表があった。今度は娘の弁によると、「大の字に寝てるママに“受かったよ!”と言ったら、薄目開けて“ああそう”だけだった」。
3年間頑張った本人の努力を台無しにするような大失敗である。
私も、塾弁やら迎えやら休日の模試の付き添いやらそれなりにやってきたつもりでいるなら、ハレの日はともに喜び合い、小さな人の労をねぎらうまで全うしなければならない。親として、そうしなければいけない日だった。
振り返ると、当日は朝から母業ひと区切りだと浮足立っていた。
長い人生で見れば、子育てにおいて夜の自由がないのはほんの一瞬なのだけれど、ただなかにいるとそう思えない。仕事の打ち上げや飲み会は必ず、夫と調整し合う。自分ばかり連続するとうしろめたさを感じ、関係の浅い宴席を断るなど調整した。よその親御さんたちに比べたら適当な子育てしかできていないけれど、それでも好きなときに飲みに行ける自由が喉から手が出るほど欲しかった。厳しい現場を皆で乗り切ったあと、その場の勢いで「今日は一杯行こうか」と言い出せる人たちが羨ましかった。
いったいなにをあんなに窮屈に思っていたのか。ふたりの子がそれぞれに家庭を持った今はもう思い出せない。
しばしば酒での失敗は面白おかしく語られるが、私の47歳の2月5日はとてもそうできない。
人生の酒解禁日は、ものすごい解放感と苦い記憶が一緒に張り付いたままである。
「大平って、こんなにお酒飲む人だったんだね」
付き合いの長いキク子に最近言われた。彼女によると、知り合ってから最初の10年は「ギャルみたいな甘いお酒しか飲まない人」だったそうな。なんとかフィズとか、カルーアミルクとかのことだろう。その場が楽しければ、酒などなんでもよかった。ギネスどころかワインも、ましてやウイスキーのことなんぞ、ちんぷんかんぷんだった。
それが50代ではキク子と京都の山崎蒸留所に行き、フランスではカルヴァドス発祥の村で共に目を輝かせてボトルを漁り、下北沢のバーで少しでも薄いウイスキーを出されれば、陰で「あそこはぼったくりだ」「けちくさい」と罵詈雑言を交わすありさまなのである。
合格発表日事件以降に私と知り合った人は、よもやそうは思うまい。
少し前、拙文をよく読んでくださっているライターさんと食事をすることになった折に、「私下戸なんです。ごめんなさい」と先に謝られた。謝る理由など何もない。私は下戸ではないものの、人生の半分を、酒とほぼ無縁の日々を過ごしてきた。だから飲まない人の気持ちも少しわかるつもりでいる。飲みすぎて勝手に自分だけ楽しくなってしまったらごめんなさいと、先に謝らまらねばならぬのはこちらのほうだ。
下北沢の夕方のギネスと、同じ街で初めて失敗をした夜から始まった、酒のある日々。
このコラムでは五十手前で知った、生活と仕事の間(あわい)にある、役割から解き放たれた時間のようなものについて綴っていきたい。
三軒茶屋に阿佐ヶ谷、青山、入谷、門前仲町。高知や福岡、パリ、アイルランドと足を伸ばし、ときにいろんな人と出会い、失敗したり、なにかが広がったりするのだが、結局酒を飲むという行為は、誰かに会いに行くためではなく、なにものでもない自分、肩書や鎧を外した自分に戻っていくためにあるような気がしている。
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大平一枝さんの好評既刊『ある日、逗子へアジフライを食べに』の刊行記念対談が5月14日(木)の夜、下北沢のB&Bで行われます。お相手はラジオDJ・ナレーターの秀島史香さん!「私たちの秘密のこたび」と題して国内外の旅エピソードを語り合って頂きます。詳細はこちらです!
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金沢で、ウイスキーをもう一度

お酒をほんとうに美味しいと思ったのは、37歳になってからだった――。子育てに奔走した時代から、少しずつ自分の時間を使えるようになって目覚めた「お酒」のこと。時間を惜しみながら飲み始めた地元・下北沢での日々、東京のさまざまな場所、そして金沢や沖縄、秋田、パリやアイルランドなど旅先での忘れられない1杯まで。珠玉の酒エッセイ。
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