日本の歴史を面白く読ませる、房野史典さん。『13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。』は、いまだに増刷を続けるロングヒット作品ですが、今回の連載は「歴史を動かした”事件”」で歴史を読んでいこう!というもの。
超怒涛の奈良時代、桓武天皇が即位してからのイケイケバンバンが、勢いを増してきました!
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称徳天皇のあとに光仁天皇誕生。
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光仁の子・山部が謀略? で、桓武天皇となる。
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桓武は『長岡京』への遷都&征夷をめっちゃ頑張る。けど、不幸なことが——
まず、このたびの征夷ですが、ボッコボコにやられます。
あちらのリーダー「アテルイ」の見事な作戦によって、大敗を喫するんですね。
ただ、これはほんの序章。
実は、征夷失敗の前年に、桓武のキサキの1人(藤原旅子)が、30歳という若さで亡くなっていたんです。
それだけじゃありません。その翌年(征夷失敗の年)には母親が亡くなり、さらにその翌年には皇后(藤原乙牟漏)が31歳で亡くなります。
これはいったい……どういうことだ? と思ったであろう桓武のもとへ、各地で”飢饉”が起こっているとの知らせが届き、おびただしい数の飢餓者が報告されたと思ったら、約50年ぶりに”天然痘”が流行。そこにダメ押しかのごとく、息子で皇太子の安殿親王(あてしんのう)が病気になり、これが長引きます。
何が、何が起こっているんだ——。となって占ってみた結果、
占う人「早良親王の祟りです」
桓武「マジで!?」

というリアクションだったかは置いといて、その直後に長岡京で”洪水”が発生。「川があって便利」ってのは、「水害が起こりやすい」ということでもある、と身に沁みた2ヶ月後、また長岡京で”洪水”です。
桓武「洪水に早良の怨霊……ここはもうダメだ! こうなれば、再び遷都をするしか……ない!」
家臣「あのぉ……同じ山背国で、水陸交通の便がよいところがありま——」
桓武「そこどこ!?」
家臣(和気清麻呂)のすすめがあったと言われる新天地に、遷都を決めた桓武。やがて、「山背国」は「山城国」と改められ、新たな都、
『平安京』が造られたのでした。
さぁ、”なぜ平城京を捨てて、平安京を造る必要があったのか?” その答えは、
仏教や貴族の力を排除するため、交通の便の良さも考えて、長岡京を造った。けど、怨霊と洪水に悩まされた結果、新たに平安京を造ることになった。

そうこれが、平安京に遷都した理由ですとは言い切れないんですよ、まだ。
もったいぶってごめんね。でもまだです。もちろん、これら”も”理由なんですよ。でもね、やっぱりまだ1番の理由が出てきてない。
もっと根源的で、もっとも強い動機。桓武が遷都を決意した、そもそもの理由。それは、
コンプレックスです。
え、コンプレックス……? と少々面食らった方のために、丁寧に説明してまいりましょう。
これまで見てきたように、桓武は”天皇の候補にかすりもしない”、そういう人生を送るはずだったんです。
しかし、父・光仁が、まさかの即位。したけど、皇太子&次期天皇は他戸親王に決まっていた。にもかかわらず、良継・百川兄弟の謀略(たぶん)によって、奇跡的に皇太子の地位を射止めて、やがて天皇になったんですね。
が、この天皇のことをまわりはどう見るでしょう?
聖武のことを振り返ってみてください。天武の皇統(天皇の血筋)の彼でさえ、母が皇族でない——藤原氏だった——ことから、聖武の即位に反対する人がいたくらいです。
では桓武の場合は?
まず彼は、天武系〈天武ー草壁ー文武ー聖武〉の皇統ではなく、天智系〈天智ー光仁ー桓武〉の皇統に属します。この時点で、「んん!?」と顔をしかめる方々多数なのに、母親が皇族でもなければ藤原氏でもない。さらには、皇太子の座を横からブン取った可能性が高いというおまけ付き。
こう並べると、言っちゃなんですが「逆に誰が桓武の天皇即位に賛成するんだ?」という感じじゃありません?
現に、桓武が即位した次の年、天武のひ孫が謀反を起こそうとしてるんですね(「氷上川継の乱」)。
そしておそらく、いや、かなり高い確率で、桓武自身もこれらをコンプレックスに感じていた——。それは、聖武と同じく、母に「皇太夫人」の称号を贈ったことからも明らかだと言えちゃうでしょう。
でも、聖武と同じことをやっても、万事オッケーとはなりませんよね。
根本の血筋が違うんだもの。何をどうしても、”正統な天武系”の皇統になれるわけじゃありません。
じゃあどうすれば?
桓武「それなら、”こちら”を正統な血統にすればいい」
桓武が取った方法。それは、
”王朝交替”です。
「王朝」を簡単に言うと、「ひとつの家系が王様の座を代々引き継いで、国を治めている期間や支配体制のこと」です(「漢王朝」や「ブルボン朝」なんかが有名ですかね)。
つまり、
「これにて天武系は終了! 皇統が天智系に移って、新たな王朝の始まりだ!」
ってことをやろうとしたんですね(といっても、外国みたいに一族がまるごと総入れ替え、ってことじゃなく、あくまで「天皇家」の中の系統が替わるだけね)。
そして桓武は、”王朝が交替した、変革が起こった”、ということを演出していくんですね。
干支(かんし。十干と十二支を組み合わせたもの)ってありますでしょ。「甲子園」の由来となった”甲子(こうし/かっし)”なんかは有名ですよね。
中国では昔から、その甲子と”辛酉(しんゆう)”の年、特に辛酉の年に革命が起こると考えられていて、桓武はこの「辛酉」の年に即位してるんです。

で、その数年後。
中国には、皇帝が天帝(神)を祀る「昊天祭祀(こうてんさいし)」という儀式がありまして、桓武はそれを日本でも行うんですね。
中国の皇帝は「天帝と”その王朝の創始者”」を祀るのですが、桓武は「天神(あまつかみ)と”光仁天皇”」を祀ってるんです。
要は、「うちの父の時代に王朝が交替しました! 現王朝の初代は父・光仁です!」ってことをアピールしたわけです。
そんで、前回の記事で行った”征夷”。あれも実は中国の影響なんです。
昔の中国には、
「われわれ(漢民族)こそが世界の中心であり、周りのやつらは文化レベルの低い野蛮な民族だ。野蛮な民族は中華の王の徳を慕って服従しなければならない」
という「中華思想(or華夷思想)と呼ばれる考えがありまして、日本もこの考えを導入し、蝦夷を従わせようとしていたんです。
これを特に意識したのが桓武で、これまでどの天皇も達成できなかった征夷をやり遂げて、実力を示し、みずからの権力を強めてやろうと考えたんですね。
こうして桓武は、中国文化をガンガン輸入し、それらをモデルに王朝交替を演出し、強調し、正当化していった、けど、
もっとあります。
王朝が交替したことを、もっともっと印象づけることのできる演出が。
天武系の天皇たちが築き上げてきたものを、捨て去る方法が。
世の人に「あ、変わった」と、見た目にも変革がわかる最大のパフォーマンスが。そう、もうおわかりですね。それこそが
遷都だったんです。
というわけで、平城京→長岡京→平安京という遷都は、王朝交替のために行われた部分が大きく、それは桓武のコンプレックスに起因するものだった。
たった1人の劣等感と焦燥感が、1000年続く都を生み出した。白目むいちゃいますね。
さて、今回も現代に通ずる学びがたくさんありました。
再起動のためにステージを変える(遷都する)なんてのも、とても大きな学びですが、個人的に推したいのは、
「出口が壮大だからといって入口も壮大だとは限らない」
です。
平安京遷都が桓武のコンプレックスだと知ったとき、「え、そんな個人的な理由で?」と思われたかもしれませんね。
でも、伊能忠敬が日本地図を作ったキッカケは、彼が「地球全体の大きさを知りたかったから」だし、
世界遺産のタージ・マハルは、ムガル帝国皇帝が王妃の死を悼んで建てられたものです。
また、ある親子(パパと娘2人)が遊園地に行ったとき、娘たちが遊具に乗って楽しんでいるのに、パパはベンチに座ってピーナッツを食べるているだけ。この状況にパパは「大人と子どもが一緒に楽しめる場所があった方がいい」と考えて出来あがったのが、ディズニーランドです。
人々の幸福や社会の発展、文化の創造に大きく寄与するものは、最初から「世のため人のため」という目的で作られた。なんてことはまるでありません。
むしろ、平安京や今あげた事例のように、超個人的な動機や、ものすごくプライベートな体験が元になっているものがけっこうあるんです。
「共感」を得ようとスタートしたものより、「共感」に大無視ブッこいたものの方が、最後に多くの人の共感を得ている。そんな場面をたびたび見かけます。
自己の存在証明や欲求を満たすことに振り切ったとき、人は際限のない力を出せるのかもしれませんね。
今、個人的な憤りや悲しみ、不満やコンプレックスを抱えているあなた。ラッキーですね。すでに大成功の種は、その手にあるんですから。
以上、超絶個人的見解でした。
(「平安京遷都」のパートはここまで!)
13歳のきみと、日本の歴史を動かした事件の話をしよう。

『笑って泣いてドラマチックに学ぶ 超現代語訳戦国時代』『笑えて、泣けて、するする頭に入る 超現代語訳 幕末物語』『13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう』などなど、ロングな人気作の多い房野史典さん。
絵がうかび、笑いながら読んでいたら、気づけば頭に入ってた! という、驚異の歴史語りは、一度読んだら大人も子供もみんなハマる!
歴史の大先生方からもお墨付きをいただいている房野さんの新連載は、「有名な事件を読み解くと、歴史の動きが見えてくるよ!」ということを教えてくれます。
歴史の面白さがグングン深まっていく、ゾクゾクする感覚をお楽しみください。










