どうしてこんなこと覚えているんだろう、と思う記憶はたくさんある。高頻度で思い出すものの中に、女の子三人で雲梯をしていた放課後の記憶がある。どんな流れかは思い出せないけれど、綾ちゃんが私たちに質問をした。
「バカとアホだったら、どっちの方が言われて嫌?」
なんだそれと思いながら、私は即座に「バカ」と言った。レミちゃんも「バカ」と言った。綾ちゃんは私たちの返答を聞いてから満足気に「私はアホ」と言った。それを聞いた瞬間、綾ちゃんが私たち二人よりも言葉の意味を理解している大人のように感じられて「やっぱ綾ちゃんってかっこいい」と思ったのだった。
お兄ちゃんが二人いる時点で、抜群にかっこいいし。今思い返してみると「バカとアホ」どちらを選ぶかというよりも、そもそもこの質問をした綾ちゃんがかっこいいなと思う。言葉に対しての姿勢が、一歩先を行っている感じがする。きっと、綾ちゃんはもう忘れていると思うけど。
どんな言葉で傷つくかは、人によって違う。私は「ブス」とか「キモい」とか言われても全然平気だけど「ダサい」と言われたら立ち上がれなくなる気がする。相手が何を恐れているか、どこに重きを置いているかは一見してわからない。だから、人と話すときの言葉選びはいつだって難しい。
どんな言葉を使う人なのかは、私にとって最も大事な情報だ。「好きなタイプは?」と聞かれたら真っ先に「言葉が合う人」と答えるかもしれない。顔立ちや身長よりも言葉の選び方のほうがよっぽど重要だ。もしもマッチングアプリを作るなら、写真ではなく原稿用紙三枚程度の文章をマストにしたい。テーマはやっぱり自己紹介だろうか。好きな食べ物についてでも良いかもしれない。簡単に話すことのできる事柄について、どんな言葉で説明するのかを知りたいのだ。たとえ趣味が一致していても、それについて語る言葉選びが合わなければ、一緒に楽しく遊ぶのは難しくなってしまうから。
「気が合うな」とか「楽しいな」と感じる知り合いがふとした時に選んだ言葉で血圧が下がってしまうことが、私にはよくある。最近多いのは「〇〇人は~」という言葉だ。その後に続く文章が「〇〇人」に対して好意的なものでも、否定的なものでも、私はほんのり引いてしまう。人間を人種で括る人が怖い。「女性は」「男性は」も同じように怖い。統計的に多いとか、傾向としてあるとか、根拠がしっかりしていたとしても、束ねるという手つきが怖くて仕方ないのだ。
この人はもしかしたら今、私のことも輪ゴムで束ねているのかもしれないと思うと、安心して喋ることができなくなってしまう。小さな声で「人によると思うけど」とか「私が会った人はそんなことなかったよ」と呟いてから、即座に話題を変えるということを、今年何度しただろう。そうは言っても私だって、人を束ねてしまうことはある。特定のプロフィールを蔑んでしまう仄暗い面だって持っている。それをどうにか、持っていないふりをしようと日々過ごしているけれど、きっとどこかでバレている。隠したって持ってるもんは持っていて、早く捨てたいのに方法がわからない。
だからできるだけ、慎重に言葉を選ぶ。良い話も悪い話も「自分が味わったごく個人的な体験談」であることを強調するようにしている。
洋菓子の差し入れを選んだ理由は「あなたが好きそうだから」が良い。「女性は甘いもの好きだから」ではなく、あくまで「あなたが好きそうだから」であってほしい。嘘でもいいからそう言ってほしい。カンバーバッチのお芝居が素敵なのは「イギリス人だから」ではなく「彼が頑張ったから」と言いたいし、君が謙虚なのは日本人だからではなく君の生き方の賜物。
全ての原因は個人に帰属していてほしいと願うのは、都合が良すぎるってわかってる。その理論でいくと、環境で生まれる不平等も個人の背中にだけ乗ってしまうし。それは違うし。あぁ、安心して喋りたい。そう思えば思うと、新しいコミュニケーションが億劫になる。狭い世界の中でぬくぬくしているうちに、新しい偏見が首をもたげることはわかっているから、頑張ってコミュニケーションを取る。家に帰ってくるとホッとする。友達に会うとホッとする。でもその友達とだって、魔法みたいに初めから言葉の相性が良かったわけじゃないのだと思い出す。私たちは話し合うことで、お互いを育てているのかもしれないと思い至る。
もっともっと沢山の人と話してみたい気持ちと、安心の中でだけ生きていきたい気持ち。どちらも真実だからバランスをとって生きていくしかない。明日誰かが私に何かを教えてくれる。明後日誰かが、私から何かを感じてくれる。諦めないことでしか、他者とわかりあうことはできないから。相手の言葉と自分の言葉に怯えながら、外に出かける毎日である。よってもくだを巻くなよと言い聞かせながら。
キリ番踏んだら私のターン

相手にとって都合よく「大人」にされたり「子供」にされたりする、平成生まれでビミョーなお年頃のリアルを描くエッセイ。「ゆとり世代扱いづらい」って思っている年上世代も、「おばさん何言ってんの?」って世代も、刮目して読んでくれ!
※「キリ番」とは「キリのいい番号」のこと。ホームページの訪問者数をカウントする数が「1000」や「2222」など、キリのいい数字になった人はなにかコメントをするなどリアクションをしなければならないことが多かった(ex.「キリ番踏み逃げ禁止」)。いにしえのインターネット儀式が2000年くらいにはあったのである。
- バックナンバー
-
- もしも私がマッチングアプリを作るなら、原...
- Apple Watchが嫌いになった日~...
- ホース、氷、そして皿焼酎~夏と戦ってみた...
- 大好きなのに、どうして大好きを表現できな...
- 自分の機嫌の取り方くらい、自分で決めさせ...
- 「そんなやつぶっ飛ばせよ」怒りが止まらな...
- 煩悩って、どうしたら飼い慣らせるんだろう
- 【舞台『ヴェニスの商人』開幕】シェイクス...
- 「結論」がこんなに流行ってるの、結論なん...
- 最弱コンピューターとやる「一人100年桃...
- 私は“仕事”よりも“生き方”を大事にした...
- 「こういうの、今って言っちゃダメなんだっ...
- 中堅の役割って、権威(a.k.a 領域展...
- 長井短、初の小説集刊行記念エッセイ~私は...
- 新居を探して3年目、ようやく出会った「息...
- うちら今日、あの人を「可哀想」にしなかっ...
- 「自由」ってこんなに怖かったっけ
- 私、Twitter(X)を見過ぎじゃない...
- 歌舞伎町タワーのミラノ座で感じた、ハリボ...
- 金曜の夜、ファミレスで癒される
- もっと見る










