
猫が飼い主のもとに帰った。
飼い主が家を空けている夏の間のひと月とちょっと、猫シッターとして一緒に暮らしていた猫だ。猫は久しぶりに飼い主に会ったら狂喜乱舞するのかと思いきや、つんと澄ましていた。
でも知っている。
猫がたびたび、玄関前に座り込んで飼い主を待っていたことを。ドアが開く瞬間に期待して、そして小さくがっかりするのを何度も繰り返していたことを。
その小さなフォルムを後ろから眺めては、やっぱりどんなに愛を注いでもわたしより飼い主さんのほうが良いよね、と寂しい気分になった。当たり前のことなのだけれど。
猫は、帰るためにドアの前に立ったわたしを見送りにも来なかった。
それも当たり前のこと。猫に求めることじゃない。
そうしてわたしは猫のいない暮らしに戻った。
ふいに、あ、もう猫がいない、ということに思い当たってどきっとする。猫は冷蔵庫のドアを開けるといつも、おやつを貰えると思って足元にすり寄り「にゃーん」と甘い声で鳴いた。だから冷蔵庫を開けるたびに足元を見てしまう。猫はいない、がっかりする、を繰り返す。
あんなに暖かく柔らかく毛のある生き物に触り放題であったことのほうが奇跡だったのだ、と自分にそう言い聞かせる。ときどき漫画や映画である、夏休みの間だけアイドルと同居する一般人のわたし、みたいなやつ。そういう感覚に近いかも。
猫と過ごした夏の日々を通じて気付いたことがひとつある。
わたしには猫を飼うのは無理だということだ。
猫がいる間、わたしはほぼ外出できなかった。外に出てもすぐに家に帰りたくなった。だって家に猫がいるから。外食もしたくなかった。だって家に猫がいるから。友達との約束もほぼすべて断った。だって家に猫がいるから。
家に猫がいたら、ほかのすべてはどうでも良くなってしまう。
かろうじて幸運だったのはわたしが家でできる仕事を生業にしていることだった。もし会社へ通ったり頻繁に家を出る必要のある職業だったら、廃業していたかもしれない。猫がいると猫のための人生を送ってしまう。猫に支配され猫のために生き猫のことを考え続ける。それはそれで幸せだろうけれど、ものすごく辛いに違いない。だって猫はそれを当然だとしか思わないだろうから。
などと考えながら、飼い陸亀におやつをあげる。
フルーツのにおいのする小さな粒を、一粒一粒、指で運んで口に入れる。陸亀はただ口をあーんと開けて、入ってきたおやつを飲み込むだけだ。甘やかしてると思われるだろう。でも毎日そうやっておやつをあげる。もちろん飼い陸亀のことも好きだ。愛してるし可愛がってる。でも猫とはやっぱり違う。
「きみが猫じゃなくてよかったよ」
と、陸亀に言ってみるけれど、陸亀はちっとも意味が分かっていない。陸亀とは、もう20年以上一緒にいる。
好きすぎるものを抱えて生きるのは苦しいから、少しだけ力を抜いて自分らしくいられるものと暮らすのがいい。それって恋愛と結婚の違いにもちょっと似ているような。
そしてそんな今を幸せだと思えるのはきっと、わたしがもう充分いろいろな人生経験をした大人だからなのだろうな、と思う。
猫のいない毎日はとても静かだ。
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愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。