
近代国家となった明治以降、天皇の発言の影響力は激増しました。では、1945年8月15日の終戦、敗戦への責任、神格化の否定に天皇はどんな言葉を残してきたのでしょうか? 近現代史研究者の辻田真佐憲さんが250の発言を取り上げ、読み解く『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』より一部を抜粋してお届けします。
「戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所」
(昭和20・1945年)
巷間の昭和天皇の伝記をひもとくと、戦前・戦中で全体の3分の2や4分の3が占められ、戦後は索漠たるものが少なくない。たしかに、新憲法の施行によって天皇の位置づけは大きく変化した。ただ、それで言葉まで大きく減少したわけではなかった。なにせ、戦後こそ昭和年間の3分の2を占めるのだ。そこにみるべき言葉がないはずがないのである。
さて1945年8月末、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が厚木に到着した。そして9月、皇居向かいの第一生命ビルにGHQが設置された。
本来であれば、マッカーサーが天皇に挨拶するのが筋だった。だが、占領下にそんな常識は通じなかった。同月27日、44歳の天皇は、アメリカ大使館にマッカーサーを訪ねた。石渡荘太郎宮内相、藤田尚徳侍従長、徳大寺実厚侍従、村山浩一侍医などがこれに付き従った。天皇の車列はそれとわからぬほど簡素で、敗戦国の悲哀を物語っていた。
天皇は、アメリカ大使館の玄関でフェラーズ最高司令官軍事秘書、バワーズ同副官の出迎えを受けた。そして次室に通され、そこでマッカーサーと握手をかわした。それから天皇は宮内相たちと分かれて、会見室に入り、マッカーサーと30分にわたって会談した(天皇とマッカーサーが並び立った有名な写真は、この会談に先立って撮影された)。

会談の冒頭、天皇は戦争責任の問題をみずから持ち出し、自身の運命を委ねると述べて、マッカーサーに深い感銘を与えたといわれる(藤田尚徳『侍従長の回想』)。
敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任がない。
私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。
マッカーサーの回想もこれと大きく違わない。そのいっぽうで、日本側の随員でただひとり会談に同席した通訳の奥村勝蔵は、別の記録を残している。それはつぎのようなものであった。
マッカーサーは、はじめきわめて自由な態度で「実際写真屋といふのは妙なものでパチ々々撮りますが、一枚か二枚しか出て来ません」と口火を切った。天皇はこれに直接答えず、
永い間熱帯の戦線に居られ御健康は如何ですか。
と話しかけた。あらかじめ用意してあった挨拶だったのかもしれない。マッカーサーはこれに軽く答えたあと、口調を変えて、力強い言葉で20分にわたって長広舌を振るい、天皇の終戦の決断を「英断」などと褒め称えた。天皇はこれに、戦争責任の問題をもって応じた。
此の戦争に付ては、自分としては極力之を避け度い考でありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります。
天皇がこの問題にかんして述べたのはここだけだった。「私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」云々の内容はみられない。
それでも、マッカーサーは天皇に好意的だった。「聖断一度下つて日本の軍隊も日本の国民も総て整然と之に従つた見事な有様は、是即ち御稜威の然らしむる所でありまして、世界何れの国の元首と雖及ばざる所であります」とまで持ち上げた。たいする天皇の答えはこうだった。
閣下の使命は東亜の復興即ち其の安定及繁栄を齎し、以て世界平和に寄与するに在ることと思ひますが、此の重大なる使命達成の御成功を祈ります。
ここは注目に値する。というのも、すでにみてきたように、明治以来、宣戦詔勅のロジックは「東アジアの安定→世界の平和」だったからだ。天皇はここで、まったく同じ言葉とロジックを使っている。マッカーサーはこれに「夫れ(東亜の復興云々)は正に私の念願とする所」と応じた。それはまるで宣戦詔勅のロジックを受け継いだかのような瞬間だった。
以上も会見の要旨なので、完璧な証言ではない。部分的に削除されているとの説もあるし、「御稜威の然らしむる所」のごとき、戦前・戦中の決まり文句をマッカーサーが口にしたとも思えない。ただ円滑な占領統治には、天皇の権威が必要だった。だからこそマッカーサーは、天皇に好意的な態度を取った。このことは、当意即妙のコミュニケーションに難があった天皇にとって幸いだっただろう。
天皇のお言葉

明治・大正・昭和・平成の天皇たちは何を語ってきたのか? 250の発言から読み解く知れれざる日本の近現代史。